シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第3章 ペルシア文明とシャンシュンの関係

 

5 ペルシア帝国とシャンシュンの関係

 ペルシア帝国とシャンシュンとのあいだには、密接な関係があった。これらの古代宗教文化を基本として検討したい。両文化の関係は三つの内容に分けられる。

 一。上述のように、地理的にみても隣り合っていて、文化が交錯する位置にあった。

 チベット語の史書では、シャンシュンは内、中、外の三つに分類されている。現在のアフガニスタン東部のバダクシャン、ウズベキスタンのブハラも内シャンシュンに含まれるが、パルサ(ペルシア)もまた含まれる。ペルシアの宗教は、内シャンシュンの宗教ということになる。

 もしシャンシュンを上下地区に分けるとするなら、上シャンシュンにはチベットのンガリ(阿里)地区、カシミールのほか、パキスタンやアフガニスタンの北東部も含まれるかもしれない。

ペシャワールやパンジャーブを含むカブール河下流域、すなわちガンダーラ、またインド北西部は、長い間ペルシア帝国の版図のなかにあった。セレウコス朝時代、イラン東部のアラコシアとガンダーラのゾロアスター教社会とインドの関係は密接で、ゾロアスター教徒は頻繁に往来していた。

 このように、ペルシア文明は部分的にはシャンシュン文明と同等にとらえることができる。つまり、シャンシュン文明の範囲内にペルシア帝国の東部にあり、ペルシア文明はシャンシュン西部にまで波及していたことになる。両者はひとつになったのである。

 二。ペルシア帝国(アケメネス朝とサーサーン朝)の時期、もっとも突出した文化現象はゾロアスター教であり、それは国教でもあった。ペルシア帝国の精神生活にも甚大な影響を与えた。サーサーン朝期、国王は祭司長を兼ね、政教合一をはたし、政治生活のなかでの地位をいっそう強固にした。

 文献にはつぎのような記載がある。

<ペルシア軍の隊列はこのようになっている。最前面は銀の祭壇。ペルシア人が神聖とみなす永遠の聖火(アフラ・マズダーを象徴)をもって祭壇のすぐ後ろにつき、古い賛歌を歌うのはマグパティ(祭司)。365人の若いマグパティと紫色のガウンを着たマグパティである。人数が一年の日数であるのは、ローマ人と同じだ。このあと一群の白馬がつづき、さらに神聖なる戦車がつづく>

 ペルシア帝国の時期、もしチベット高原とのあいだに文化交流が生まれていたなら、ゾロアスター教が関わってくるのは当然のことである。それはペルシアの精神文明の代名詞であり、シャンシュン自体もその影響を直接受けていたかもしれない。両帝国の興亡のあいだの数百年も、ゾロアスター教は存在しつづけたわけで、チベット高原西部に影響を与え続けただろう。アレクサンドロス大王(前356−323)はペルシア帝国を滅ぼしたあと政権を樹立したものの、すぐに瓦解し、前312年、部将のセレウコスがいわゆるセレウコス朝を建てた。漢文資料では「条支」と呼ばれる。

 前3世紀中葉、大夏(バクトリア)と安息(パルティア)が相次いで独立を宣言した。彼らは多かれ少なかれペルシア文化を引き継いだが、とくにゾロアスター教は重要だった。安息国を滅ぼし成立したサーサーン朝では、ゾロアスター教が絶頂期を迎えようとしていた。

 5世紀はじめ、大月氏と匈奴が混血したエフタル人がアルタイ地区から西へ移動し、中央アジアやアフガニスタンを占領し、都バダギス(Badhaghis 現在のアフガニスタン北西部)を建設した。サーサーン朝と何度も戦ったのち、484年にペルシア王ペーローズ1世を殺した。以来ペルシア人は貢納し、臣を称するようになった。その後エフタルはインド北西部に侵入し、ペルシアとチベット高原の政治的関係を断絶させた。もっとも、エフタル人はゾロアスター教徒だった。中央アジアの文化遺産を受け取っていたのである。すなわちゾロアスター教とチベット高原の関係は断絶していなかったのだ。

 8世紀、唐朝の新羅僧慧超は西方への取経の旅に出て、中央アジアを進んでいたときのことを、「波斯(ペルシア)の人は生き物を殺し、天につかえて(ゾロアスター教を信じて)、仏法を知らない。大食国以東の九姓胡国、すなわち安、曹、史、石騾、米、康などの国もことごとく火?につかえ、仏法を知らない。ただ康国に一寺あり、一僧あり。しかし敬することを解さず」と描写している。

 吐蕃王朝が強大になっているときも、その西隣の中央アジアでは依然としてゾロアスター教が隆盛であり、衰えるきざしは見えなかったということである。吐蕃は外来文化を受け入れ始めていたので、ゾロアスター教がチベット高原に入った可能性はかなり高い。

 三。以上の二点を見ても、ペルシアのゾロアスター教文化とシャンシュンの宗教、およびチベット高原の古代文化とのあいだに密接な関係があったと信じる理由は十分にあるだろう。

 ペルシア帝国滅亡とサーサーン朝瓦解のときが、ゾロアスター教がチベット高原に入ったふたつの時期だといえる。それらは両方とも外部の勢力によってもたらされた。ひとつはギリシアのマケドニア人。もうひとつはアラブ人である。

 彼らはゾロアスター教を迫害し、信徒は改宗を迫られ、四散した。後者はとくにイスラム教の聖戦によるものだ。結果はおなじだった。ゾロアスター教徒の大部分はペルシアに隣接する各地へと逃げた。チベット高原は身を隠すのにもっとも適した土地のひとつであった。

 ペルシアとシャンシュンの文化関係で重要なのは、宗教である。すなわちゾロアスター教とボン教の関係だ。基本的にゾロアスター教はボン教に直接影響したのか、あるいは、もっと具体的にいえば、シェンラブのボン教あるいはユンドゥン・ボン教の生産と発展か、ということである。

 以下の章でわれわれは論拠を提出したい。まずふたつの点を明確にしておきたい。

 その一。われわれは民族の、あるいは国外の文化交流という観点から学術的問題を探求すべきだが、ひとつの民族が単独で発展するということは不可能である。また研究対象が自身で発展し文化的に成就するとは言い切れない。文化の伝播や影響は簡単な移植や外科手術ではない。きわめて複雑な過程なのである。

 その二。ゾロアスター教のボン教の発生に対する影響はどうなのか。ボン教にはすでに体系、教義、儀軌のある真正の宗教であったと理解すべきか、シャンシュン本土のもともとの原始宗教が発展したのか、あるいはゾロアスター教が土着化したのか、そういったさまざまな問題点がある。

 きわめて興味深いのは、ゾロアスター教はアケメネス朝(前539331)とサーサーン朝(後224651)において国教であり、ボン教もまたシャンシュンの国教であったことだ。吐蕃にボン教が入ってからも、27代、それは護持されてきた。その文化的影響を考えれば、当然広い範囲にわたり、さまざまなものに及んでいるのはまちがいない。それについて深く考察し、細心の注意をもって探索したい。