シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第4章 ユンドゥン・ボン、タジク起源説

 

1 ボンとボン教

 ボン教の形成時期に関し、学界の意見は二つに分かれるようだ。ひとつは比較的早く、吐蕃王朝成立以前とするもの。もしかするとはるかに古く、神話時代にすでに存在していたかもしれない。もうひとつは、ボン教の出現を11世紀前後とするもの。西欧の多くの学者はこの説に同意している。たとえばスネルグローブはチベットの古代宗教にはどの地方であれ、ボン教と呼ばれることはなかったという。

 一部の研究者の認識では、仏教伝来以前の宗教はボンではなく、ツ(gtsu)だったという(語源は不詳)。ボンポのほかに別の種類の祭司が見出されるが、それはシェン(gshen)と呼ばれる。スネルグローブやリチャードソンによるとシェンは献祭する者という意味だという。

 このようにわれわれはまずボン教と原始ボン教とを区別し、ボン教形成の歴史をさらに深く研究していかなければならない。チベットの原始的な自然崇拝におけるさまざまなボンとシェンラブ・ミボが創立したボン教とは区別すべきであり、混同すべきではない。

 ボン教形成の歴史に関し、学界は二つに分かれるが、9−11世紀にはすでに存在したことでは両者とも認めている。クエルネが指摘するように、ボン教史上曖昧模糊とした時代は、785年(大法諍)から1017年(ルガのテルマ発見)の間である。彼は913年を最初のテルマ発見とし、ボン教経典収集と大蔵経編纂のルガ(kLu dga)の時代とみなしている。

 クエルネはまたボン教の形成期を吐蕃末期(842年)と11世紀とし、ボン教はこのあと事実上チベット仏教の一宗派となった。

 スネルグローブはボン教形成九乗の時代の末尾を10世紀と考える。また組織をもった宗教としては、9世紀に遡ることができるという。彼によればボン教徒とニンマ派仏教徒は838年からその教義を確立した。教団としての制約は受けず、廟宇も寺院もなかった。彼らはとくに無上部を尊重したが、かといって民間の宗教的修練をおろそかにしたわけではなかった。

 これらの研究に対し、スタンは大きな問題があると認識している。どれも敦煌文書に言及していないのだ。敦煌文書の大部分は9世紀から10世紀頃のものとみられ、そのなかにはボン教関連も含まれるのにかかわらず。

 組織的な教派としてのボン教が形成されたのは、遅くとも11世紀という。その主要な著作は、テルマ(発見された宝典)か書写された経典である。『賢者喜宴』の著者パウォ・ツグラ・チェンワは、敦煌文書と似たもの、あるいは同一の著作物を見ることができたはずだ。

 中に3部の吐蕃期のツェンポの詔書が入った写本がある。これは後世の著作が利用するのに十分な価値がある。トゥッチはまたラルーの1953年の論文をもとに、後期の著作と敦煌文書のシェンとボンについて論じている。

 スネルグローブは、ボン教の文献は初期仏教の内容を大量に保存していると考えている。仏教典籍の『国王遺教』と王家のボン教による葬送儀軌がほぼおなじであるのは、そういった時代背景があるからだという。

 カルメイは後期ボン教徒の妖魔、霊魂、厄払い、治療術、儀軌書と敦煌文書の記述とを比較した。その結論は、後期ボン教と古代伝統とのあいだには断絶はない、ということだった。

 実際、われわれは早期ボン教の発展の歴史をいくつかの段階に分けて考えることができる。まず原始信仰の時期、それを「自在のボン」と呼ぼう。この時期、ボンは原始信仰の一部であり、その他の信仰とも並存していた。それは原始的な自然崇拝であり、北方のシャーマニズムとよく似ていた。

 その第2段階は、シャンシュンの民間信仰的なボン。ペルシアのゾロアスター教などの外来の影響を強く受けてきた。チベット語の史書が述べるように、タジクのボン教がシャンシュンに入ってきた時期である。ゾロアスター教などの外来宗教が入ることによって、シャンシュンの原始信仰は大きく変化し、ユンドゥン・ボンが生まれた。

 ユンドゥン・ボンと前期ボンは大きく異なっていた。いわば民間信仰が昇華して宗教になったのである。史書や伝説がいかに賞賛しようと、この時期のボン教には経典もなければ、ボン教経典の翻訳もなかった。

ボン教は、チベットの原始宗教が統治者の需要にあわせて変化したものともいえる。のちシャンシュンから吐蕃に入り、ツェンポたちに重視され、「護持国政」のために長い間利用された。

 吐蕃王朝期には、ボン教は新しいさまざまなもの、とくに生命力のある仏教と対立し、衝突し、相互に吸収したり融合したりした。

 11世紀に出現したボン教は、多くの学者にいわせれば、初期の「ボン」とは完全に違ったものだった。われわれの言う初期の「ボン教」ともかなり異なっていた。というのも後者の「ボン教」は仏教を模倣し、それを土台として新たに立て直したものの、初期のボン教の特徴もとどめ、かえって本質的な差異が見えなくなったため、多くの学者に仏教の一派とみなされるようになったのである。

 ボン教の重要な活動といえば葬送である。『五部遺教』「大臣遺教」には、「世間のシェンに360種の死の方法あり、4種の大葬送法あり」と記される。

 『トゥカン宗教明鏡』は、「九乗なる者、チャ・シェン(Phywa gshen)、ナン・シェン(sNang gshen)、トゥル・シェン(Phrul gshen)、シ・シェン(Srid gshen)を四因乗となす。(……)シ・シェンには360種の亡魂の送り方がある。4種の葬送法がある。81種の邪霊の鎮圧法がある」と述べている。目的は死者の魂を昇天させることである。

 『漢蔵史集』(rGya bod kyi yig tshang)にはまた、ディグン・ツェンポが逝去したあとの葬送制度に触れている。「(……)これより後、ディグン・ツェンポの遺体をヤルルンまで運び、ボンポ・パレの子ケギャル・マオチェ(Kye rgyal smao che)は刀剣によって調伏し、棺を開けた。13年ぶりに銅棺を開けたとき、なかからカララという声が発せられた。そのためこの地をカラタンと呼ぶようになった。その後ディグン・ツェンポの遺体をチョンゲの山上に移すと、天から黄金の縄が現れた。それゆえこの地を「天降金縄」と呼ぶようになった。

 邪悪を駆逐するため、吉祥を祈祷し、ボン教徒はしばしば祭祀で捧げるための犠牲獣を採取した。古代ボン教徒はそのために馬、羊、ヤクを用いた。というのは、羊は岩壁に沿って進み、川を渡るので、死後の地への道路を切り開くと考えられ、馬は死者が乗って行くためのものであり、ヤクは妖魔の間を進み、ともに戦うと考えられた。

 この葬送習俗にはチベットの原始的なボンの内容が含まれていたが、また外来の影響の痕跡も見出されるのだった。