シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第4章 ユンドゥン・ボン、タジク起源説

 

4 ボン教開祖シェンラブ・ミボ

 ボン教の起源に関する問題に注意を払うとき、別の重要な問題を避けることができない。すなわちその創始者とされるシェンラブ・ミボの真偽、生死の年代、事跡などの問題である。この問題はきわめて厄介である。ここはボン教の研究に尽力してきたサムテン・カルメイ氏の話を一席聴こうではないか。

「われわれは目下のところ、彼の存在性、生没年、民族、その活動内容を確認できるだけの十分な資料を持っていない。彼によって選定されたとされる大量の典籍や彼の言行を確証するものは何もない」

 カルメイ氏ボン教徒自身による文献と伝説によってこの聖人の生涯を叙述するにすぎないのである。

 ボン教伝説によると、シパイェサン(Srid pa ye sangs)の天国には、ダクパ(Dag pa)、セバ(gSal ba)、シェパ(Shes pa)の三兄弟がいた。彼らはボン教聖者ブムティ・ロクギ・チェツェン('Bum khri glog gi lce can)の指導のもと修行に励み、学業を成し遂げたあと、シェンラ・オカル(gShen lha Od dkar 白光シェン神)に拝謁し、衆生を苦難から救う方法について教えを請うた。

 シェンラ・オカルは彼らに三段階の導師になるように言った。すなわちダクパは前世、セパから変わったシェンラブは現世、シェパは来世を担当することを求めたのだ。シェンラブの導師役を担当したのは、シェンラ・オカルだった。一方、シェンラブが世界秩序を維持するのを手伝ったのは、シパ・サンポ・ブムティ(Srid pa Sangs po bum khri)だった。

 これらボン教三尊はラ・シェン・シパ・スム(lha gshen srid pa rsum)と呼ばれる。シェンラ・オカルとシパ・サンポ・ブムティはシェンラブの仕事を助けた。主人公のシェンラブを王子としてオルモルンリンに誕生させたのだ。

 幼い頃からボン教の布教をはじめ、ライバルは悪魔キャブパ・ラグリン(Khyab pa lag ring)だった。シェンラブはチベットへ行くことになるのだが、それというのもキャブパ・ラグリンが7匹の馬を彼から盗んだからだった。チベットに着くと、彼はボン教の教義を広め始めた。そして彼はチベットがまだ受け入れるだけの条件が整っていないことに気がついた。彼は予告する。一旦機が熟したなら、彼の教義はみなオルモルンリンからチベットへ入ってくるだろう、と。

シェンラブは自身を身の毛もよだつ恐ろしい姿の神に変身させた。しかし恐ろしさを増せば増すほど、その効果は薄れた。シェンラブが洞窟にこもって修行したあと、悪魔キャプバ・ラグリンは最後にはシェンラブに屈服する。シェンラブは82歳で逝去した。

 上述のボン教伝説から、われわれは重要なポイントを整理しよう。まず、シェンラブが生まれたとき、ボン教はすでに存在していたこと。彼はボン教のなかでも出色の修行者だが、ボン教の創立者ではない。彼はあくまでシャンシュンにおけるボン教の創立者であり、ボン教創立者そのものではないのだ。

 一昔前、チベットにベーツル(dBal tshul)というボン教学者がいた。彼は1939年から1972年までの34年を費やして、ボン教史『仏ユンドゥン・ボンの教えの善説福頚厳論』(注:西蔵人民出版社から刊行された著作の題はgYung drung bon gyi bstan byung phyogs bsdus)を著した。

この書は歴史資料と導師らが書写したものに依拠して書かれたものだが、もちろん当代の人の作品であることを免れない。シェンラブの生涯の基本的資料となることはできない。とはいえ、歴史上の諸説を網羅し、シェンラブの生涯の活動を詳細に列挙していて、後世のボン教徒の開祖観がよく表れている。

 この書によると、シェンラブ・ミボは1歳のとき、厄払い、卜占、鏡占い、治病、宝典発掘などチャ・シェン乗(phyaw gshen theg pa)を開始し、2歳のときナン・シェン乗(snang gshen theg pa)、3歳のときトゥル・シェン乗(’phrul gshen theg pa)、4歳のときシ・シェン乗(srid gshen theg pa)についての講義をし、人々を苦難から救い、法を伝える人生を開始した。そして82歳のとき、すなわち水兎の年の冬の三十日黎明時、九層ユンドゥン山頂で涅槃に入った。

 シェンラブ・ミボの生涯をすっきりとまとめるのは困難だ。このような神話的な人物の事項を歴史年代に対応させ、時系列に並べるのは、疑念を高めるだけである。学界では少なからぬ研究者がシェンラブと仏陀、あるいはゾロアスターとの比較を試みてきた。古代のチベット語文献には孔子と会ったという故事を紹介したものや、老子と同一人物とみなした者さえあった。

 ボン教がシャンシュンからチベットに入ったあと、それと仏教とが邂逅し、特別な関係が発生した。とくにパドマサンバヴァが創立したニンマ派とは密接な関係があった。ボン教は仏教から多くの理念と観念を接受し、同様に仏教もボン教から多くを取り入れた。ボン教開祖シェンラブ・ミボの伝記はゴータマ・ブッダのそれを模倣したものであり、パドマサンバヴァ伝を書き写したものだった。その大部分はパドマサンバヴァの教法に起源をもつニンマ派の経典から剽窃したものだった。

「シャカムニと同様、シェンラブの本生故事はまず誕生からはじまる。前世の彼は天国の楽園から地上を見つめる」

「ボン教の教法中、ボンポの原初仏とニンマ派の原初仏はほぼ同じである。すなわち男はクントゥ・サンポ(Kun tu bzang po)、女はクントゥ・サンモ(Kun tu bzang mo)。

救世主であるシェンラブの経歴の最初に現れるのは、聖なる湖での洗礼だ。これはイエスがヨルダン川で洗礼を受けた故事を連想しないわけにはいかない。救世主シェンラブの弟子のなかでは、マロ(tMa lo)はブッダの弟子シャーリプトラ(Shariptra)に相当するだろう。ユロ(gYu lo)は目連(Maudgalyayana)に相当するだろう。そしてトブ・ブムサン(gTo bu Bum sangs)はアーナンダ(Ananda)。

 シェンラブがチベットやその近辺で布教の旅をし、鬼や魔の類を征服するのはまさにパドマサンバヴァの模倣である。この模倣本は、当時アジアを席巻する勢いだったマニ教からインスピレーションを受けたのではなかろうか。

シェンラブが中国で布教をしたという故事はまた、チベットの英雄史詩のケサル王物語と類似している。英雄史詩のほうがボン教経典からアイデアを借用した可能性もあるわけだが。

 ブッダと同様、シェンラブも似たような状況下で涅槃に入る。彼の長い遺言のなかで、興味深い一節がある。彼は身代わりが戻ってくることを約言し、本身は中間の永遠の世界へ行くと言った。われわれはイエスのことを思い起こしてしまう。イエスもまた聖霊が降りてくると告げて天に昇っていった。

 シェンラブの約言のなかに、身代わりのムチョ・デムドゥク(Mu cho lDem drug)という名(あきらかにシャンシュン独特の名)を発見する。彼はこの地上に三年滞在し、教主の意思に沿って忠実に福音を伝える、そして完璧に講釈の記録を残す。この説明で重要なのは、これがボン教のはじめての官方の説明であり、ボン教の聖典の創造の問題にまで及んでいることだ」。

 以上の分析はボン教文献のあまたの根本的問題、すなわちボン教には元来経典がなかった、文献がなかった、それらはチベット文で創られた、仏教伝来後仏典を模倣して文献を創った、さらには自分たちの教主の伝記も創った、などにも及ぶ。ただしボン教のすべての伝説や記述、開祖シェンラブの一切の活動までをも否定することはできない。誇大な部分、偽造の部分を除けば、十分に信頼できるものがあるのだ。

 サムテン・カルメイは『概説ボン教の歴史と教義』のなかで、ボン教開祖シェンラブの伝記がシャカムニの十二縁起の模倣であることを認めている。

またシェンラブの生涯を書いたつぎの三部の聖徒言行録にも、あきらかな仏教の影響が認められる。

 『ドンドゥ』(mDo dos)はもっとも早いシェンラブの生涯を描写した著作で、おそらくシャンシュン語からの翻訳だろう。ただし埋蔵宝典とされ、短く、21章しかない。発見されたのは10世紀頃ではないかと思われる。

 『セルミク』(gZer mig)は、2章18巻という構成。これも埋蔵宝典で、発見されたのは11世紀頃という。

 『シジ』(gZi brjid)はシェンラブの自伝。口伝経典に分類される。『セルミク』の拡大版。内容は、大量のボン教起源の情報を含め、広範囲にわたり、宗教や社会風俗にまで及んでいる。

 サムテン・カルメイはつづけて言う。

「われわれはこの著作中に本当のボン教の特徴を見出すことはできない。これらの内容はむしろインド仏教思想そのものなのだ。たとえばカルマ、因果、転生、苦難に満ちた人生の本質および解脱の方法、そして悟り。同時に、しかしながら、これらは紛れもなくボン教であると、人々は感じるのだ」。

 7世紀にボン教が受け入れた外来宗教の成分、たとえば宇宙起源に対するイランの影響はたやすく見出すことができる。ボン教の萌芽段階において、それらは主要成分に入り、統合された。そのなかには、国王の神聖性、諸神の崇拝、イランの世界形成概念、インドの深奥なるカルマと転生理論などが含まれる。

 シェンラブ・ミボに関してサムテン・カルメイは言う。

「敦煌文献中、シェンラブ・ミボの名はある種の祭司として6度言及される。重要人物ではないが、生者と死者の間を行き来できる不可欠な祭司なのである。これによりわれわれはこのような人物がいたこと、その人物がチベット人であったこと、さらには7世紀以前に存在したことは確認できるのである。ボン教の編年史はそれがブッダ以前であるとみなしている。ただし敦煌文書が発展させた伝記文学という点からみると、文献が書写されたのは9世紀末から10世紀はじめとするのが妥当なところだ。

 これにより、後世のボン教伝説が認める宗教開祖のシェンラブは、8、9世紀頃の伝説と直接関係があることがわかる。またトゥカン・チューキ・ニマはシェンラブと老君(老子)を同一人物としたが、われわれはこれを厳密な推論と認めることはできない」。

 旧ソ連の学者クズネツォフとグミレフは、シェンラブ・ミボはペルシア人と考えた。彼は太陽崇拝者であり、ペルシアのゾロアスター教をチベットに持ち込み、シャンシュンのボン教に変えたというのである。チュコフスカヤはクズネツォフ、グミレフに賛同し、シェンラブはペルシア人で太陽崇拝者とする。ただし、チベットのボン教はチベットの部落および氏族の影響を強く受け、性崇拝によって変容し、シャーマニズムと似るようになったと考える。

 チベット文『シパ系譜図』(Srid pa rgyud kyi kha byang)が述べるように、シェンラブ・ミボは若いときにタジクへ行き、そこでサラメバル(Za rang Me bar)という者に彼の教義を広めさせた。古代ボン教のいわゆる六荘厳のひとつはペルシア由来のものだが、彼によって多くのペルシア宗教の経典がシャンシュン文字を使って翻訳されたという。

 ボン教の著作はシェンラブの宗教理論の源流をシェンラ・オカル(gShen lha od dkar)に置いている。シェンラは至高の神だが、ガトゥン・ツルティム・ギェルツェン(sGa ston Tshul khrims rgyal mtshan)の『ボン教史』(bsTan pa bon gyi glad don gyi rang grel)は歴史上の人物とみなしている。シェンラはウッディヤーナの国王であり、シェンラブはそこで教えを賜り、シャンシュンにボン教の教義を伝播した。シェンラを実在する人物とするのは根拠がない。シェンラ・オカルとはシェン神白光という意味であり、幻化した神である。

 後期のボン教文献では、シェンラブ・ミボはボン教の開祖となる。サムテン・カルメイが指摘したように、敦煌文書には、葬送儀式の巫師としてその名が5回(訳注:正しくは6回)現れる。このことから、7世紀以前のチベットに、シェンラブ・ミボが存在したことは確認された。スタンもこれを確認し、これらの文献は歴史的資料というより儀軌的なものであると主張した。その名も、各種の巫師シェンやボン教徒も、実在するのではなく、儀軌のなかの伝説や神話故事であると考えた。

 まさにスパニアンが指摘するように、敦煌文献のシェンラブ・ミボはつねに父(pha)と呼ばれている。後期ボン教の大師(ston pa)とは異なる。ただし名はおなじだ。偶然おなじ名であることはありえない。

 サムテン・カルメイが述べるように、われわれはつぎのような仮説を立てることができる。すなわち(おそらく11世紀に)ボン教の創設者たちが、伝説的な開祖(たとえば仏教ではシャカムニ *訳注 原文ではブッダ)の名を選ばないといけないとき、敦煌文献に頻繁に現れる名を選んだのである。

 しかしシェンラブ・ミボの名が唯一後期ボン教に残った名前ではない。その名を選んだために、残らなかった名もあったはずだ。

 敦煌文献のP1136、1194、1068、1134、1289、S731(訳注:正しくは730)に父・シェンラブ・ミボが言及されるが、そのつどドゥル(bsdulまたはdul)マツァという名も記されるのである。

 クエルネによれば、ボン教徒の主張では現在の仏は、王子トンバ・シェンラブ、すなわち「祖師、至高にして無上のシェン」である。彼の生きた時代はシャカムニより少し前で、場所はタジク、つまりチベット以西のどこかである。トンバ・シェンラブはボン教を世界に広め、のちボン教の教義を生み出した。ボン教の教義はシャンシュンを通じてチベットに伝来した。このシャンシュンはタジクとチベットの中間にあった。

のちの仏教の文献によれば、シェンやボンポは葬送儀礼に精通していたので、彼らはシャンシュンやブルシャ(ギルギット)からチベットに招かれた。

 しかしながら多くの学者は依然として、シェンラブ・ミボはチベット人でシャンシュン人だが、タジク人ではないと考えている。ボン教がタジクから来たというのは古代ボン教徒の盲目的崇拝が生み出したものにすぎない、というのだ。これらの分析に道理がないわけではないが、物事を単純化しすぎているともいえる。

 当時のチベット人の中央アジアの地理と歴史に対する認識は、われわれの想像をはるかに超え、豊富だったはずである。タジクがどのような地域であったか、知らないはずがないのだ。中央アジア史におけるペルシア帝国の存在はあまりに大きく、その影響は計り知れず、チベット人とも密接な関係にあったことは、常識であったといえる。

 チベット人が外来宗教を盲目的に信じ、その開祖を国外に求めるというのは、どういうことなのだろうか。なぜ中央アジアで影響力を持ったペルシア帝国であり、ほかの国や文明ではないのか。多くの文献や伝説がこのことを繰り返し強調するのはなぜなのか。その歴史を単純化するためには、現象の背後に隠れた史実に目を向けなければならない。探求はまだ初歩段階だが、推測を重ねていけば、アウトラインが見え、仔細を研究して掘り下げ、憶測の向こうに真実が見えてくるだろう。

 意味深長なのは、ボン教開祖の名シェンラブだ。これはペルシア語のマズダー、すなわちゾロアスター教の光明の主にして善神アフラ・マズダーのことである。その意味は、智慧だ。ボン教もゾロアスター教も光明を崇拝し、智慧を崇拝する。両者の教主とも智慧の化身なのだ。しかし偶然名前が一致したわけではない。

 チベットの史書は、伝説中のシェンラブ・ミボはタジクから来たグルととらえている。彼はボン教をシャンシュンにもたらし、それはチベットにも伝わっておおいに興隆することになった。彼はボン教の理論体系の創立者であり、多くの修行や儀軌、呪文、予言などを系統化し、規範化した。彼の存在は、われわれがボン教とペルシアの間の関係を考える上で助けになるが、魅力的な彼自身については、何も材料を提供してくれない。

 ボン教史書の記載から、われわれは伝説中のシェンラブ・ミボの生きた時代を推定することができる。一説には、シャカムニ(前565−485年、あるいは前624−544年)より少し前だという。これはあきらかにボン教徒が仏教を上回りたいという意図が見える。著名な学者ナンカイ・ノルブの考えでは、シェンラブ・ミボが82歳で死んだとして、1988年の時点でそれから3845年経過しているので、彼が生きたのは前1857―1775年ということになる。ボン教の伝説に依拠すると、シェンラブは紀元前18か19世紀の人ということだが、一般人にはとうてい受け入れがたい。

 ボン教文献『マパム湖史』(mTsho ma pham gyi lo rgyus)の記載によれば、シェンラブはシャンシュンの王子で、彼には八子があった。ペー氏妃ティギェムの子ユンドゥン・ワンデン(gYung drung dbang ldan)が王位を継いだ。その子ドゥクギ・ギャルポ(Brug gi rgyal bo)はムボン・ヨウデン(dMu bon you bdan)を生んだ。

その子はムボン・タンドル(dMu bon thang rdol)、キェロツェ(sKye lo tshal)、シェン・ドルパ(gShen grol ba)、ムカ・ポミポ(dMu kha spo mi spo)だった。

 史書の記載によれば、ニェティ・ツェンポの子ムティ・ツェンポは、シャンシュン王ムカ・ポミポをヤルルンに招こうとしたという。ということは、両者は同時代人ということである。

 チベット語の史書の上記の記述が間違いでないとしたら、われわれはシェンラブ・ミボの時代を推測することができる。まず、二つの材料から、古代チベット人の一代あたりの年数を推定する。

 その一。チベット自治区解放の頃の平均寿命は36歳だった。その二。吐蕃王朝期、ソンツェン・ガムボからランダルマまで10代ツェンポの合計は225年(617−842)、平均寿命は22・5歳だった。

 古代人は結婚年齢が若かったので、一代を30年と仮定しよう。すると、ムティ・ツェンポからソンツェン・ガムポの父のナムリ・ロンツェンまで31代、約930年、それにムカ・ポミポからシェンラブ・ミボまで7代、約210年を加えると、合計1140年、すなわちソンツェン・ガムポ誕生(617年)前1140年、つまり紀元前523年という計算になる。

 この推定では誤差はきわめて大きいが、シェンラブ・ミボが紀元前5世紀前後に生きたという仮説はそれほど間違っていないだろう。(*訳注:結婚年齢と寿命がごっちゃになっている。一代を18年として計算すれば、38代で684年。シェンラブ・ミボの時代は紀元前67年ということになる)

 このように、シェンラブ・ミボは当時名を馳せたシャカムニ、孔子、老子らと同時代人ということになり、聖人を輩出した時代の余韻が残っていた。中国の中原では戦国時代(紀元前770−476)晩期にあたる。

 ということはシャカムニよりも前で、孔子と対話することも可能で、老子と同一視する説も、あながち荒唐無稽な説とはいえなくなる。もっとも、シェンラブは伝説中の人物であり、神話から神化された人物である。この人物がタジクのボン教をシャンシュンにもたらし、彼自身はシャンシュン・ボン教の教主となり、古代チベットの宗教文化に多大な影響を与えた。

 注目すべきは、この時期はペルシア帝国全盛期であり、ゾロアスター教がはやり、周囲にさまざまな形で影響を与えていたことだ。この頃、シェンラブがシャンシュンに来たというのは、理にかなっているといえよう。そのなかにあってわれわれがまだ十分に研究できていない分野がある。

 このように、これらの資料を深く分析しても、なおシェンラブは虚構の宗教的人物である。とはいえ、その原形となったのは、タジクから来た伝教師だったろう。彼はタジクのボン教をシャンシュンにもたらし、ユンドゥン・ボン教を創立した。彼の活動は、後世の人々が言うような赫々たるものではなかった。彼が存命していたとき、ある程度の影響力があったにせよ、傑出したというほどではなく、文献記録もないので、彼の生涯や年代は失われてしまった。

 しかし彼の事跡は不朽であり、シャンシュンにおいてボン教が発展し、影響力が増すと、開祖としての地位が次第に確立されていった。人々は当時流布していた神話伝説を用いて賢者の生涯の欠けていた部分を補い、彼はますます善なる、偉大なる存在となっていく。そして、その本当の姿からはますます遠く離れてしまったのである。ボン教の神秘性、神秘的特長は増すばかりだった。

 彼は神話化された賢者であり、歴史上尋常ならざる影響をもたらした人物だった。シェンラブ・ミボはおそらく彼の本名ではなく、尊敬と愛情をこめて人々が呼んだ名だった。すなわちシェン氏の賢者、あるいはシェン派の賢者という意味である。

 吐蕃朝期、あるいはそれ以前、シェンラブの形象は、ゾロアスターを基本として造られた。11世紀に新ボン教が創立されたときは、シャカムニを基本として造られた。その原形はタジクから来た者だったかもしれないが、ボン教の系統化と理論化において影響力を発揮した伝道者だった。多くのその他の伝道者と融合し、宗教の需要と「造神運動」のなかで彼は開祖に選ばれ、地位はますます高くなり、ついには創始者かつ神主となったのだった。