シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳
第4章 ユンドゥン・ボン、タジク起源説
5 オルモルンリン
ボン教の起源地はタジクのオルモルンリンである。伝説中、ボン教開祖シェンラブ・ミボはタジクに生まれ、ボン教経典、儀軌はタジクからもたらされた。チベット語の史書はそのように記載し、われわれもつぎのようにとらえる。
シャンシュンのユンドゥン・ボン教は、その内容の多くがタジクから来た舶来物であり、土着のものではない。同時にボン教はチベットの古い宗教でもあった。それは外来宗教がシャンシュンの土着の原始宗教と結合し、生成されたもの。この意味から、ボン教はチベットで形成され、発展してきたものといえる。この点ではチベット仏教と似ているが、それと比べると地方色がより出ている。
ボン教研究者ダン・マーティンは各種資料を調べ、またボン教の18カ国と関連した地理概説をもとに、オルモルンリンとタジクが同一であり、後世の多くの文献もおなじような見解をもっていることを認識した。
タジクはチベットの西方に位置し、中間にはギルギット(ブルシャ)とヤヴァナ(バクトリア)があった。すなわち現在のパキスタン北部からからタハル(Takhar)地区(チベットのトガルTho garであり、吐火羅Thod dkarではない。ボン教文献は両者を混同している)である。タハルはアフガニスタン北東部。
『ドンドゥ』をもとに考えると、オルモルンリンはチベット北西のティセ山地方、あるいはム(dMu ペルシア?)という神秘的な国の北部にある。そこには九層黒山、パクシュ(オクサス河)、(タリム盆地)シタ河がある。(*訳注:VakusはPag-shuの間違い)
その地域はアフガニスタン北東部からバダフシャンまで伸び、パミール地区をも含むが、タリム盆地は域外。あるいは、その範囲内にバルチスタン、ギルギット、カシミール北部、パキスタン北部のスワートやチトラル、そしてバダフシャンを含む。またもしガンカ(Gang-ka)がガンガー(Ganga ガンジス河)のことなら、インド北部のウッタル・プラデーシュ州まで含むことになる。
13世紀以前の文献は、ぼんやりとその位置を描いてきた。すなわちチベット西部やラダックからバダフシャンにかけての地域である。
オルモルンリンの位置がペルシアのどこであるかは、はっきりしない。むしろチベットの西端とペルシアの辺境のあいだと考えられる。この地区と西チベットのティセ地域とは一致するかもしれないが、微妙にずれているかもしれない。
「オルモルンリンがどんなに理想化されようとも、それがチベット西部、あるいはペルシアと接した地域の古代文化のなかで醸し出されたものである。その地域でなぜ最終的にボン教が仏教に取って代わられたのか、わからない」
オルモルンリンは、地理学上も、歴史学上も、入るのが困難な地域である。もしそれが「清浄な場所」であるなら、なぜそれを地球の表面に探す必要があるだろうか。その位置を特定するのは、なんとも愚かな発想ということになってしまう。
ボン教史書によると、ブル(Bru)部族は小勃律(Bru sha)とトハリスタンからチベット西部とツァン地区にやってきたという。ブル族は11世紀に形成されたシェン・チェン・ルガ(gShen chen glu dga’)に属する四大支系のひとつである。またボン教でもっとも重要な六大姓のひとつでもある。
われわれはボン教の伝説のなかに、ペルシアと関連した要素を数多く探すことができる、とダン・マーティンは言う。オルモルンリンの地図も、ペルシアと関係していそうだ。ボン教がシャンシュンとチベット西部のどこかから来たという説は十分ありえるし、ペルシアと関連づけるのも、道理がある。ただしクズネツォフが主張した紀元前6世紀のペルシア帝国と関連づけた説は、実際とは符合しない。
ボン教起源地とシャンシュンはム(dMuあるいはrMu)と呼ばれる。この名称の解釈は容易ではない。語源学的には、それは「有限」とか「辺境」つまり「野蛮」といった意味となる。チャ(phya)やツグ(gtsug)といっしょに考えれば、それは宇宙起源の統一体という意味である。またムは古代六大氏族のひとつ、すなわちシェンラブ・ミボの属した部族だった。
われわれはまた、ゾロアスター教のマグと密接な関係があるのではないかと考えている。これはあとでまた触れたい。
シャンシュンの範囲をシャンシュンとペルシアが交差する地域とするのは、もっともである。その一部はペルシア帝国の管轄下にあった。ペーツル(dPal tshul)はシャンシュンをタジクの中心とし、中間をウッディヤーナと考えた。
また少なからぬ学者がシャンシュンの王宮を現在のチベット自治区阿里地区ツァダ県のチュロン(キュンルン)、いわゆるキュンルン銀宮と考えている。