シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第4章 ユンドゥン・ボン、タジク起源説

 

6 ボン教とシャンシュン及びチベットの原始宗教

 シェンラブが創造したボン教あるいはユンドゥン・ボン教が導入される以前、あるいは形成される以前、シャンシュンにはすでに地域の特色がたっぷりある民間信仰があった。教義や理論体系がる信仰のみが宗教なら、厳密には宗教とは呼べないかもしれないが。

 一般に、研究者は両者を混同することが多く、シェンラブ以前のシャンシュンやその他の地方の原始信仰をもボン教と呼ぶことがある。いわゆるタジク・ボン、ギャカル(インド)・ボン、スムパ・ボン、ギャナ(中国)・ボン、ブルシャ・ボンなどである。その中身には大差があるが、一般には原始的とされる各地の民間信仰である。実際、それらは誤解される成分を持つ。

 伝説によればシェンラブが創立したユンドゥン・ボンは、シャンシュンの原始的な信仰を基盤としているものの、全部が全部同じというわけではない。シェンラブは原始的なものを理論体系のある宗教に変じてみせ、シャンシュンやチベットの習慣に適合させ、チベットの各種原始信仰をその体系にうまく収めた。ボンポは、おそらくシェンラブ以前にすでに存在していた。それぞれ、崇拝の儀式や崇拝の対象を持っていただろう。しかしシェンラブ登場後、みな従属的位置におさまり、シェンラブのユンドゥン・ボンの担い手となっただろう。

 学界でもこの問題には注意を払ってきた。ホフマンはチベットの宗教について語るとき、民間宗教信仰とボン教とをはっきりと分けた。両者の関連と区別を明示したのだ。

 ホフマンによると、チベット人は彼らの宗教・信仰を仏教(神法)、ボン教(ボン法)、民間宗教(人法)に分けるという。古代人は三界における多くの神々の信仰は、原始民間信仰と考えていた。

「チベットの民間宗教は仏教やボン教と接触する段階で、それ自身が変化してきた。仏教やボン教の多くの点を吸収し、これにより、宇宙観、神の体系、仏教・ボン教の信仰、儀式、巫術、および来世観念などを見ると、古代遊牧民や農民の伝統的な信仰が入り混じっている。このような現象が起こるのは、チベットのなかも、一通りではないからだ。チベットの民間宗教はこの両宗教を吸収すると同時に、それ自身が仏教・ボン教に影響を与えることとなった」

 実際、ひとは容易にボン教や仏教のなかに民間宗教や信仰の成分を見出すことができる。ホフマンが指摘するように、チベットの原始民間宗教と中国北方のテュルク、モンゴル地区のシャーマニズムとの間にはある種の関係が存在している。

また、トゥッチは『チベットの宗教』のなかで、前期仏教の時代の民間信仰の状況を詳しく、濃厚に描いている。

 一部の学者はボン教をシャーマニズムととらえることに反対している。彼らは「ボンポ」ということばは最初、仏教伝来以前の宗教祭司を指していたと認識している。この種の宗教はつねにシャーマニズムとみなされ、そこから誤解が生じてきた。

 仏教伝来期(7世紀から9世紀)の文献を見ると、ボンポという祭司は重要な役目を持っているが、主要な役割を負っているわけでもない。ツェンポの葬送儀礼および墓の上で行なわれる儀礼と関係しているように思われる。この儀礼はきわめて複雑だが、しかしわれわれはシャーマニズムといえるようなものは、一切見出すことができない。

 著名な学者ドンカル・ロサン・ティレーは、チベットの古代の宗教と発展状況について、つぎのように述べた。

「昔のチベットの史書が言うには、仏教伝来以前のチベットでは、すなわちニェティ・ツェンポからラトトリ・ニェンツェンまでの27代のツェンポの期間、ドン(sgrung)、デウ(ldeu)、ボン(bon)という三つの宗教形態でもって国政を維持してきた。まるで仏教以前のチベットは、ボン教と結合し、政教合一制度を作り出していたかのようなのだ。

 ただし、詳しく分析すると、当時の国王には古ボン(*訳注:おそらくク・シェンのこと)と呼ばれる御用法師がいた。彼らは国王の招福を祈願するだけであって、権力を掌握することはなかった。

 『ボン教史』やダライラマ五世の『チベット王臣記』、パンチェン・ソナム・ダパの『新紅史』(*訳注:『紅史』の間違い)などに記載されているように、ニェティ・ツェンポのとき、ツェミシェンギムギャル('Tshe mi bshen gyi dmu rgyal)によってボン教がもたらされた。これがチベットに最初に現れたボン教である。

 このニェティ・ツェンポのときチベットに伝播したボン教をドゥル・ボン(brdol bon)と呼ぶ。それは原始的な宗教思想の基盤の上に、五大神(*訳注:ここは諸神とすべきだろう)、すなわち地方神(yul lha)、家神(khyim lha)、軍神(dgra lha)、舅神(zhang lha)などが加わったものである。牛、羊、鹿などを犠牲として捧げ、儀礼をおこなった。

また人の死後、霊や神となるのか、霊や神も人に転生するのか、そういった前世・後世について認識していた。この宗教のことを、歴史上、われわれは白ボン教と呼んでいる。

 8代ツェンポ、ディグン・ツェンポのとき、阿里のシャンシュン地方にシェンラブ・ミボ(通常トンバ・シェンラブと呼ばれる)という人がいた。インド西方のタジクからチベットに外道自在派(*シヴァ派)をもたらしてボン教と結合させ、宗教理論を確立した。このボン教はドゥル・ボンではなく、キャル・ボン(khyar bon)と呼ばれる。

 この新しいボン教はナン・シェン(snang gshen)とも呼ばれた。ナン・シェンは転生説を認めなかったが、霊や神は認めた。神は、人が生きているときその生命を保護した。霊は、人が生きているとき生命を掌るだけでなく、死んだあとその魂を奪って逃げた。霊は後代まで危害を加え続けることができた。そのため、人を救う神に対してはよく供養し、人に害を与える霊に対しては、駆除しなければならなかった。

 イタリアを拠点とする著名なチベット学者ナンカイ・ノルブは言う。

「ボン教開祖トンバ・シェンラブが人の世界に来たとき、魔によっておこなう魔ボン(bdud bon)、ツェンによっておこなうツェン・ボン(btsan bon)などいくつかの宗教が存在していた。彼らは他の生き物を犠牲としていたが、シェンラブ・ミボはそれを禁止し、生き物の模造(トルマ)でもって血祭りの代替をおこなうドゥ(mdos)やイェ(yas)などの儀礼をおこなった。ドゥ儀式に関しては、文献中にも記述がある。魔ボンやツェン・ボンはシェンラブ出生の700年前にすでにあった」

 魔ボンとツェン・ボンの出現をシェンラブ・ミボ出生の700年前とするのは憶測にすぎないが、民間信仰がかなり早く出現していたのは疑いない。ただし正確な時期を特定するのは困難である。

 チベットの原始的な民間信仰に関し、ホフマンは三界の区分とそれぞれの範疇に属する鬼神について述べている。

「川底や湖底、井戸の底などがル(klu)の棲家である。彼らはそこで秘密の宝を守っている。林や岩に棲むのはニェン(gnyan)。土地に住むのはサダク(sa bdag)、すなわち土主。また恐ろしい吸血動物のシ(sri)。このシはとりわけ子どもを食らいたがる」

 あるボン教経典にはつぎのような詩があった。

 

竜王はあらゆる河川を棲家とする

ニェン王はあらゆる樹木や岩を棲家とする

土主(サダク)は五種の泥土を家となす

ひとは言う、あれは土主、あれはル、あれはニェン

彼らに伴侶はいるの

長いトゲを持つサソリ

細い腰のアリ

金色の青カエル

トルコ石色のオタマジャクシ

イ貝のように白い蝶

これらはみな彼らの伴侶なのさ

 

 彼らの管轄区はときには交差することもある。たとえばニェンは山の上や谷間をうろつき、石の隙間に隠れ、森や暗渠に巣食い、天空を支える。竜神(ル)はときには地下の主である。

 チベットの民間宗教は動物犠牲を重視する。唐朝の漢文史書には、吐蕃のツェンポが動物を犠牲にして誓いをたて、祭祀を献じる様子が描かれている。

<臣下とは一年に一回小盟するが、そのときは羊・犬・猿などを犠牲にする。まずその脚を折ってこれを殺し、ついでその腸を裂いてこれを屠る。ついで巫者に天地・山川・日月・星辰の神に告げさせて言う。

 「もし心が変わり、悪事を考えて盟にそむけば、神はみそなわして、これらの羊・犬と同じ状態になるであろう」

 三年に一回、大盟を行なうが、それは夜、土壇の上で、衆とともに供物をならべ、犬・馬・牛・ロバなどを殺して犠牲とする。そして呪文を唱えて言う。

 「汝らみな心をひとつにし、力を合わせてともに我が家を保て。おもうに、天神地祇ともになんじの志を知っている。もしこの盟に背くことがあれば、なんじの身体は切り裂かれてこの犠牲と同じようになるであろう」>(旧唐書)

<ツェンポは、その臣下と年に一回小盟をし、羊・犬・猿を犠牲に捧げる。三年に一回大盟をし、夜、いろいろの壇に供物をおき、人・馬・牛・ロバを犠牲に捧げる。だいたい犠牲はかならず足を折り腸を裂いて前に並べ、巫をして神に告げさせて、「盟にそむく者あれば、この犠牲のようになるであろう」と言う>(新唐書)

 後者は前者と違い、人を犠牲に用いて祭祀を行なっている。

 ボン教文献はまた王子の身体の回復を祈って、属民を献じる儀礼の場面を描いている。

<呪術師はその人の両足を押さえ、ボン教巫師はその両手を押さえて、短刀で胸を切り開き、心臓を取り出した。それから呪術師とボン教巫師は血と肉を分けて、天空の四方に向かって撒いた>

 また『空行母イェシェ・ツォギェル』によると、ボン教徒は毎年秋になると「鹿角祭」を行なった。多くの雄鹿を殺し、その血と肉を捧げて祭りを行なった。冬には「ボン教神祭」を挙行した。ヤク、綿羊、ヤギなど三千匹を殺し、ヤク、綿羊、ヤギ、それぞれ一千匹ずつ生きたまま開き、血と肉を献じた。春には「肢解母鹿祭」を行なった。四匹の母鹿の四蹄を折り、血と肉を献じた。夏には「ボン教祖師祭」が開かれた。各樹木や糧食を献じ、香をくべて祭祀を執り行った。

 実際、これらの犠牲祭祀はチベットの民間宗教であって、ボン教の教義とは関係ない。ただボン教徒がこの巫師の役目を負っているのである。

 このように、一部の研究者は、シェンラブのボン教は殺生に反対していると考えている。上述のナンカイ・ノルブはそのひとりである。ツェラン・タイも『悠久のシャンシュン文明』のなかでそれと似た主張をしている。

 彼は述べる。シェンラブのボン教と原始ボン教の違いはつぎのようなものだ、と。

「シェンラブがシャンシュンからチベットに来たとき、すでに彼は整然とした理論と教義を携えていた。それに対し、原始ボン教は成熟した宗教ではなかった。動物を殺生する祭祀がまずシェンラブの反対にあった。それで動物の模造をつくり、その代替物を用いた。それはドゥ(mdos)やイェ(yas)などと呼ばれる。現在にいたるまで、トルマ(gtor ma)をつくり、ドゥを行なうのである。殺生の祭祀はいまもチベット人の地域に見られるが、これは原始ボン教の残余であり、シェンラブの理論が許すものではないのだ」

 ボン教と原始民間宗教との間には区別があるが、密接な関係にあることも事実である。ボン教は民間宗教を吸収することによって、その内容を豊富にしてきたのだ。