シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第5章 ユンドゥン(卍)と吉祥の数値

 

1 ボンの意味、諸説

 ボン教は結局のところチベット中央の固有の宗教なのか、それともシャンシュン、あるいはタジクから伝来した宗教なのか、学界はいまだに割れている。ボン教の核心の問題にもうひとつ、「ボン」とはどういう意味なのか、がある。

 当然その来歴によって、存在のありかたも変わってくる。もしそれがペルシアから来たのなら、ペルシア語のなかにそれを探さなければならない。同様に、もしシャンシュンから来たのならシャンシュン語、チベットに現れたのなら古代チベット語のなかに探さなければならない。

 ボン教の手がかりを求めていけば、上述の地域や言語の間に密接な関係があることがわかるはずだ。各言語のなかにその原義を見出せば、その関係や発展を理解することができるだろう。それはボン教の流伝と変化であり、さらにはっきりとその様子を確認できるのである。

 前述のようにわれわれは、ボン教はタジクから来たと認識しているので、ボン教も系統化されたのにはペルシアのゾロアスター教の影響が強かったと考えている。

 さて、一歩進んで、ここでチベット語やシャンシュン語の「ボン」について調べ、さらにペルシア語の語源を探っていきたい。

 チベット語のなかのボンの意味については、学界ではつねに関心をもたれてきたので、つぎからつぎに新たな論文が加えられてきた。しかしいまのところ定説と呼べるものはない。

 ヘルムート・ホフマンは1950年、ボンの意味は「呪文によって神を呼ぶこと」と述べている。G・ウライとスネルグローブは、ボンの基本的意味を「召喚」「祈請」「呪文を唱える」「吟誦」「吟唱」と理解している。

 スネルグローブはさらに進んで、ボンはシャンシュン語の「Gyer」(吟誦)に相当すると認識した。

 一部の学者は、「ボンという語は、その基本的な意味は瓶を指す。いまも水壷、水瓶などはbum paと呼ばれる」と主張する。(祝啓源、格勒)

 ボンとギェルはいったいどんな関係があるのだろうか。これもまた定説ではない。一部の歴史書によれば、ボンはチベット語の古語であり、シャンシュン語のギェルとおなじく「吟誦」という意味だという。ボンがチベット語古語であるのは疑う余地がない。ギェルがシャンシュン語であり、ボンの意味であるのもまちがいない。ギェルという語はチベット語・シャンシュン語両方で用いられ、ボン教文献中では「ボン教儀式中で念じられる頌詞」の意味で使用される。

 しかしこの見解に反対する研究者もいる。それは文献を読めば、あきらかだという。

「ボン教は一貫してボン、あるいはユンドゥン・ボンと称されるのであり、ギェルと呼ばれることはない。ギェルはボン教文献中、プン(Spungs)と連用される。ギェル・プンはボン教では教師の意味となる。それで優秀なボン教大師の名前の前に、「Gyer rni nyi od」や「Gyer spungs snang bzher loa bo」などが冠せられるのである。

 この用例以外に、われわれはギェルという語が使用された例を知らない。このことからボンという語がボン教の名称として使用されて長い時がたつが、ギェルという語が古代シャンシュンの時代に使われたという根拠はないのである」

 しかしシェンラブ・ミボが創立した宗教がシャンシュン語でギェルと呼ばれたのはまちがいない。

 学者によっては、シェンラブのボン教とその他のボンとは区別できると指摘する。

「一般的に言って、シェンラブ・ミボの創立した宗教がボン教である。ボン教文献中、シェンラブ創立の宗教は正統派のボン教とみなされ、ユンドゥン・ボン教と称される。つまりボンはユンドゥン・ボン教とは同等ではないのだ。つまりボンという語はシェンラブの理論と同時に生まれたわけではなく、それどころか理論とは無関係なのである。

 シェンラブのずっと前、すでに魔ボン(bdud bon)やツェン・ボン(btsan bon)といった原始的なボンがシャンシュンで活動していた。彼らは民衆のために厄除け・厄払いを行い、病気を癒し、邪気を祓い、多くの信徒をかかえていた。

 シェンラブの宗教ははじめボンではなく、ギェルと呼ばれていた。これは古いシャンシュン語だが、のちチベット語に訳され、ボンとなった。原始的なボンと区別するため、シェンラブの宗教はユンドゥン・ボン教と呼ばれた。

 ユンドゥンははじめ「卍」の名称だったが、のち不変、永久の意味を持つようになった。ユンドゥン・ボン教徒は彼らの永久の信念をこれに仮託したのである」(才譲太)

「シェンラブの宗教と原始ボン教とは区別される。シェンラブがシャンシュンからチベットへ布教のために来たとき、彼はすでに理論と教義を持っていた。このときのボンはまだ不成熟な宗教で、殺生を伴う祭祀儀礼を行なっていたが、シェンラブの反対にあって動物模型に代替し、ドゥ(mdos)やイェ(yas)という儀式を行なうようになり、現在に至っている。現在のトルマ(gtor ma)の作成は、このドゥの伝統なのである。

 ただしこの殺生を伴う儀礼はいまもチベット各地に残っている。これは原始ボン教の残余であって、シェンラブの理論が許すものではない」(同上)

 実際、シェンラブがユンドゥン・ボン教を創立する前、チベットには各種名目のボンが存在していた。チベット語の史書にはシェンラブのボン教のほか、多くのボンが存在した。そのなかでも数多くのボンポがシェンラブに受け入れられ、弟子となり、ボン教の教義を伝播する役目を負った。

 『セルミク』にはシェンラブの重要な弟子たちの名をリストアップする。

 

ウェボン・ルムポ(dBal bon Rum po

ヨグボン・トギェル(Yogs bon gTo rgyal

ティンボン・チャサン(Khrin bon Phya sangs

ニェルボン・トチェン(gNyer bon gTo chen

オボン・ダンス(O bon Brang gzu

ツァムボン・ヨトゥ(mTshams bon Yo khru

ドゥボン・チュツァグ(bDud bon Chu lcags

ムボン・イェテン(dMu bon Ye tan

ツェンボン・ツェーチャグ(bTsan bon mTshal chags

シボン・ムチョ(Srid bon Mu cho

クーボン・ツグセ(sKos bon gTsug sras

チャボン・テウレク(Phywa bon Theu legs

ラボン・トカル(Lha bon Thod dkar

ダボン・ツェパ(Zla bon Tshes pa

ニボン・ダンマ(Nyi bon drang ma

カルボン・ダンタ(sKar bon gdangs bkra

ティンボン・バトゥル(Sprin bon ba tul

ジャボン・クグタン(Ja bon kug tang

ダルボン・ウカル(Dal bon dBu dkar

セルボン・ダンニェン(Zer bon gDangs snyan

ロボン・トチェン(Lo bon gTo chen

デボン・ガンドゥク(rDai bon Ngang drug

ルボン・チャルニャ・ギムブ(kLu bon dByal bon gyim bu

ニェンボン・タンタン・ドルワ(gNyan bon Tang tang grol ba

ギェルボン・ボンポ(rGyal bon bog po

メンボン・ディムタン(sMan bon Brim tang

セボン・ラツァ(gZed bon la tsha

シボン・イェンガル(Srin bon ye ngal

デボン・ルボン・ギェルケ(Dre bon  gLu bon Gyer mkhas

シンボン・ムペン・ペウル(gShin bon mu phan phevur

チュルボン・ナボンボン・リチン(Byur bon sNa bon bon li byin

シンジェイボンポ(gShin jeI bon po

タボン・チョンティ(gTa bon byon ohri

チュキボンポ・タルボン・ルキョ(Chud kyi bon Po thar bon gru skyol

 

 このように見ると、ボン教と原始ボン教は区別すべきだが、同時にそれらは密接な関係にあった。シェンラブがユンドゥン・ボン教を創立したあと、彼らはそれをシェンラブ・ボン教に取り入れたのである。