シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳
第6章 古代語新釈
1 シェン(gshen)とサナヴィー(sanavee)(続)
チベットの史書によれば、ボン教はタジク、すなわちペルシアから来た。その開祖もタジクから来たシェンラブ・ミボ(あるいはトンバ・シェンラブ)だった。
われわれはこのことと、ゾロアスター教がチベットに入ったこととは関係があるのではないかと考える。極端にいえば、ボン教は、チベット高原の原始宗教がゾロアスター教を吸収した、あるいは融合したあと形成されたのではないかと推定する。それと高原の古代文化は、かなり密接な関係にある。さてわれわれはまず、シェン(gshen)という語に注目したい。
シェンラブ・ミボ(gShen rabs mi bo)は、「シェン氏の傑出した人物」という意味である。チベット史書はまたトンパ・シェンラブ(sTon pa gshen rabs)、開祖シェンラブとも称す。おそらく彼は出色の布教者だった。しかもシェン氏のすぐれた伝道者だった。その門人と信徒をシェン氏と呼んだ。古代チベットでは、シェンは宗教祭司であり、その主要任務は犠牲獣を屠り、献祭することだった。それゆえ研究者はシェンは献祭人と呼んだのである。
敦煌チベット語文献には、シェンおよびその活動を記述したものが多い。彼らの主要活動は、殺犠牲、葬送、祭祀などだった。チベット文献『五部遺教』は言う。
「世間シェンがあり、360種の死法、4種の大いなる葬送法がある」
ナムカイ・ノルブはボン教資料をもとに述べる。
「すべての世間シェンは死法と葬送法に帰結する。このほかのものはない」
シェン氏はおそらく古代人のなかでもっとも感受性が高く、最重要なことは死と葬送であると認識し、その活動の主役となったのだろう。シェンはしばしばボンと密接な関係にあり、シェンボン(gshen bon)と称した。
「后妃三園」(jo mo gling gsum)のとき、すなわちティソン・デツェン王時代、葬送と祭祀活動を担当したシェン・ボンには、トゥ・ボン(khru bon)、祈祷ボン(zhu bon)、切開ボン(bshig bon)、墓場ボン(bse bon)、計数ボン(grang bon)などがあった。彼らは厳かで神秘的な殺犠牲祭祀活動を完成させた。
『チベット王統明鏡』に記されるように、プデ・グンギェル(sPu de gung rgyal)のとき、すでにユンドゥン・ボンはあった。その教主はトンバ・シェンラブ・ミボで、彼はタジクのオルモルンリンに生まれた。彼は天界八部など一切の教法をシャンシュン語に訳し、広め伝えた。
ボン教は9類に分けることができた。すなわち因ボン4類と果ボン5類である。因ボン4類は、ナンシェン・バトジェン(snang gshen bal thod can)、トゥルシェン・バツォンジェン(’phrul gshen bal tshon can)、チャシェン・ジュティグジェン(phya gshen ju
thig can)、ドゥルシェン・ツォンチャジェン(dur gshen mtshon cha can)だった。
ナンシェン・バトジェンは、卦をして幸福を祈り、祈祷して薬を乞い、吉祥を願った。トゥルシェン・バツォンジェンは、災厄・病がなくなることを願い、護国の基礎を築き、一切の裏切りを排除した。チャシェン・ジュティグジェンは、ジュティグ(訳注:ひも占い)によって吉凶を示し、未来を予測した。ドゥルシェン・ツォンチャジェンは、生者の禍を取り除き、死者のために葬送を主事した。幼い者のために鬼魔を駆逐し、上は星の現象を見て、下は魔がひそむのを見た。
ここにナン・シェン(snang gshen)、トゥル・シェン(’phrul gshen)、チャ・シェン(phya gshen)ドゥル・シェン(dur gshen)に分かれ、内容は違っていたが、どれもみなシェン、すなわち祭司で、ボンポの範囲内であり、等しく因ボン(rgyu’i bon)に属した。同時に巫師と祭司のシェンの顔ぶれはそろっていて、社会生活における地位は非常に高い。
シェンは殺犠牲によって献祭を行ない、葬送儀礼を主宰する。それだけにかぎらず、上は国政の護持参与から、下は幸福祈願・災厄駆除、吉凶占いまで、社会のあらゆる階層のなかで活動し、人々の日常生活、精神生活に深く影響を与えた。
祭司のシェンが特別な性質を持っていたことは、数々のチベット文献のなかにその痕跡を見出すことができる。われわれはシェン(gshen)と同根の語、たとえば死を表す「gshin」を含む「gshin dkor」(死者の幸福のために僧侶に献じる宝物)、「gshin gyi
nags」(墳墓)、「gshin dge」(死者のための法事)、「gshin chog」(死者の霊魂を守る儀式)、「gshin rje」(死主)など。
殺犠牲を表す「gshed」には「gshed ma」(首切り人)などがある。
前述のようにシェンは死者のための儀礼の主催者であり、これらの用例は、犠牲を殺すことと密接に関係している。
チベット文資料などをもとに、われわれはシェンのイメージを明確化できる。第一に、シェンはボン教の祭司であり、信仰者であり、伝播者だった。吐蕃初期の国政の護持者であり、民間の巫師にして精神指導者だった。第二に、シェンの開祖シェンラブ・ミボはタジク、すなわちペルシアから来た。第三に、ボン教は自然崇拝を主とし、香を焚き天を祭るのはその中心である。第四に、シェンの教主とその宗教はペルシアから来たのだから、ペルシア語のなかにその痕跡が見出せるはず。
古代チベットのシェンと唐代に造語された「ネ天」(xian)とは音が近く、ともにペルシアからやってきたものであり、ゾロアスター教を指した可能性がある。シェンと「ネ天」、「ネ天正」などはどれもその宗教の祭司の意味を含み、天を祭る、天を拝する、といったことが主要な活動だった。
われわれはペルシア語の語源として、「sanavee」「sanaviyyat」「sanaviyye」を候補として挙げたい。その意味は、「sanaviyye」が「二元論者」、「sanaviyyat」が「二元論」、「sanaviyye」はまた「二元論学派」である。その根本はゾロアスター教の善悪二元論なのである。
これにたいし、フランシス・スタインガス(Francis Steingass)のペルシア語・英語辞典は意味を明確にする。この二元論を持するのはモグ(ゾロアスター教)の一宗派だという。「sanaviyye」はモグ(ゾロアスター教)、あるいは二元論的宗派というのである。
それらの語根「san」は、漢語の造語「ネ天」(xian)、チベット語のシェンの語源なのである。
このほかペルシア語には、「ネ天」やシェンに音の近いものに「sheed」(光、太陽)、「shinあるいはsheyn」(明瞭な、晴朗な)などがある。等しく天空を修飾する語で、光明をあらわす。どうやら漢文の「ネ天」やシェンと同音か音の近いペルシア語のなかで、天空や光明といった意味を持つ語があるのだろう。
これらの語と二元論的な語が近いのは、どれもゾロアスター教が崇拝する光明や天の神々と関係があるからなのだ。われわれは中古世のペルシア文献、すなわちパーレヴィ文献中により直接的な資料を探し当てられるのではないかと期待している。
最後に一点付け加えたい。われわれの推測だが、ゾロアスター教二元論を指すのに光明と天空をもってその特徴とする「ネ天」と古代メソポタミアの原始神霊シン(sin)神とは何か関係があるのではなかろうか。メソポタミアの古代文明は、かつてゾロアスター教の火崇拝や天崇拝の影響を受けているのである。
シン神はもともと遊牧民族が崇拝する月神だった。草原の生活で、遊牧民は月の満ち欠けによって時間の推移と季節の変化を知った。月の位置によって星辰の方位を知り、それから吉凶禍福を占った。
月神崇拝は発展し、シュメール・アッカド時代、それはウルの守護神となり、突出して高い地位についた。そしてシッパルの太陽神とともにどこでも崇拝されるようになった。
さらに重要なのは、シュメール、アッカド、バビロニアにおいて、華々しい神々のなかでも、太陽を管理し、神の法官を担当し、法を執行し、勧善懲悪を行ない、正義の太陽神ウトゥ(アッカド人のシャマシュ)の管轄だったのは、シン神の子だった。
シン神の地位が突出していることが与えた影響は大きかった。『新バビロニア諸王銘文集』には、新バビロニア王ナボニドゥスがシッパルのシン廟を修復したときの銘文が載っている。
「われナボニドゥスは偉大なる王である。巨大な力を持つ王である。全世界の王である。バビロニアの王である。天下四方の王である。エサギラとエズィダの保護者である。われ母のおなかにいるとき、シン神とニンガル神は、諸々の大神を信じ、偉大な力を持つわれに国家を賜う決定をした」
「ハランのシン神殿エフルフルは、偉大なる統治者シン神がいますところ。のち神が都市と神殿を捨てたとき、メデ人を蜂起させ、この神殿を壊し、廃墟とした。わが公正なる統治のもと、諸々の神や統治者はわれに王権を賜って喜び、これらの都市や神殿を深く愛しておいでである。
わが長い統治期間の初年、偉大な統治者マルドゥク(バビロニア主神)とシン神は夢をわれに賜うた。マルドゥクはわれにおっしゃった。バビロニア王ナボニドゥスよ、自ら馬に乗り、レンガを運び、エフルフルを再建せよ。偉大なる統治者シンはここを居城とするのだ」
以上のことは、シン神が神々の中でも突出して高い地位にいたことを示している。ペルシア帝国建国後、バビロニアも領土の一部となり、シン神は広く流行した。みなペルシア文明のなかに組み込まれ、外来文化としてのペルシア文明を受け入れたのである。シン神崇拝がこのような状況下でゾロアスター教の一部分となったのか、また古代中国にまで影響を与えるに至ったかは、はっきりしない。