アブドゥル・ガニー・シャイフ  宮本神酒男訳

 

 私たち家族は山の中腹まで上り、大きな岩の傍らで一休みした。すると夜が明け、朝の光が私たちを包み込んだ。私は自分の村のほうを見た。山の上の寺、古い城の廃墟、子供時分に通った荒廃した学校の建物、緑の段々畑、岩だらけの牧草地、そして私たちが長い年月のあいだ過ごしてきた悲喜こもごも入り混じった細い道を見た。

 私の視線は柳とポプラの陰に隠れた我が家の上にとまった。屋根の上には草の束と糞のパイがきちんと並べてあった。牛は飼い葉桶で草を食んでいた。馬は庭近くの杭につながれていた。

 私の視線は飛んで小さな墓地にとまった。先祖全員が埋葬されている墓だ。涙があふれてくるのをこらえることができなかった。

「アバ」と私は心の中でつぶやいた。「私たちはあなたを残してこの村から去ろうとしている。楽しいわけがない。あるのは無力感だけだ」*アバは父のこと。

 自分の村を見るのがこれで最後であるかのように、私は心の中で別れを告げた。妻と娘の目にも涙が浮かんでいた。

 私たちはしばらく休んでから、また歩き出した。頭の中にはソナムの言葉がこだましていた。数時間前、家の玄関をだれかがやさしく叩いた。こそこそしながら入ってきたのがソナムだった。

 彼の面持ちは沈んでいた。土間の上にしゃがみこみながら、彼はささやくような小声で言った。

「シディク、悪い知らせがあるんだ」

 驚いて私たちはソナムの顔をじっと見た。

「あんたらはこの家を出ていかなければならん」

「なに冗談言ってるんだよ」と私は不安をはらうように言った。

「いや冗談じゃない。まじめだ。出て行くんだ、今すぐ」

「どうして」

「いま理由をいう時間がないんだ、シディク」涙の粒が彼の頬を伝った。

 妻と娘は泣き始めた。「いったい私たちの何がいけないというの? どんな罪を犯したというの?」

「悪いのはあんたらじゃない、おれたちだ。町から風が吹いてきたのだ」

「だれがそんなこと言ったんだ?」

「タシだよ。タシに話したのはドルジェだ。ドルジェに話したのはツェリンだ。タシはこのことを絶対に他言してはいけない、と言っていた。もししゃべったら、彼らが家を焼き払うだろうって」

「彼ら?」

「町から来た連中のことだ。あいつらが言うには、おれたちはみな降参しなくちゃならないとさ。あんたらの村も宗教もな! シディク、こんな風を運べるのは人間だけなんだがな」

 ソナムのふるまいはどこかぎこちなかった。私たちは事態の急変にただ驚いていた。村人たちはいつも親切だった。それがいったいどうしたことだろう? 私たちは三世代前からここに住んでいた。だれからもいびられることもなく、感じ取るとすればそれは愛情だった。喜びも悲しみも心の底から享有してきたはずだ。

「ソナム、耳を疑ってしまうよ」

「でもそういうことなんだ」

 それからソナムは妻のほうを見て言った。

「アチェ、いまは泣いている場合じゃありません。出発する準備を整えてください」*アチェは姉の意。

 少し間を置いてから彼は言った。

「シディク、山を越えて町へ向かってくれ」

「こんな真っ暗なのに、どうやって山を越えろと?」

「でも道路を行くのはもっと危険だ」と彼は警告した。

 ソナムは立ち上がり、扉の向こうへ消えていった。彼はコソ泥のようにやってきて、コソ泥のように去っていった。

 私たちは衣類や日常品、妻の装飾品などを3つに分けて梱包し、さらに食べ物をひとまとめにした。また飼い葉桶を干し草と飼料で満たし、馬を庭の草地の近くの杭につなげた。羊やヤギを入れた囲いの中に草を置くと、われわれは家を出て、小川を渡り、山道を上っていった。

 

 山の背後にふるえる黄色の光線があらわれ、それから太陽本体が姿を見せた。太鼓を叩く音と蝿が唸るような音がないまぜになって聞こえてきたのは、頂上から150歩の地点に達したときだった。足に根が生えたかのように私たちはそこで動けなくなった。つぎの刹那、目と鼻の先の木立から群衆が現れた。あわてて岩の陰に隠れると、目の前を群衆が行進していった。彼らが連呼するスローガンが空にこだました。四方向から強い風が吹きつけてくるように私は感じた。そのような風を運ぶことができるのは人間だけだとソナムが言ったのは正しかった。

 五十年ほど前、町から強い風が吹いてきたことがあった。そのときに風によってもたらされたのは天然痘だった。数人の命がそれによって奪われた。たくさんの家屋が壊された。私のアビ、アチェ、ノノもその犠牲となった。*アビは祖母、アチェは姉、ノノは弟。

 それから独立を訴えるメッセージとともに冷ややかな東風が吹いてきた。そのあとわれわれの土地に楽しげな風が吹いてきた。教育の光があまねく照らされ、電気と灌漑の水がもたらされた。

 しかしこの眼前の風の流れはそれらとはまったく異なるものだった。毒々しい、悪意に満ちた風だった! そのような風が村に吹いたことはなかった。天然痘を運んだ風よりも脅威で、有毒だった。その風は人の命を奪うだけでなく、人から人を奪うものでもあった。

 丘の頂上から私たちは群衆がゆっくりとわが家の方へ向かっていくのを眺めた。ほとんどの人は見覚えがなかった。と、群衆の中に隣人のドルジェの姿があることに気がついた。

「ドルジェだ!」と、とっさに私は声を上げた。

「アバ、見て!」と娘が叫んだ。「アジャンのソナムも行進しているわ!」*アジャンは母方の叔父。

「そんなことはありえないよ。ソナムが入っているわけがない」

「でもよく見て、アバ」と娘はまた叫んだ。「アジャンのツェリンも、アジャンのタシもあのなかにいるのよ!」

「もっと声を落としなさい」と妻が注意した。

 群衆のなかに近しい人々が混じっているのを確認して、わが心は沈み込んだ。

 群衆はわが家の前で止まり、挑発的な歌を合唱しはじめた。それはまわりの山々にこだまし、不吉な雰囲気を醸し出した。ソナムやドルジェ、ツェリン、タシらは、一節歌うごとに拳を突き上げた。

 しばらくたつと、人々はわが家から根こそぎ物を持ち出した。ソナムはガス・シリンダーとストーブを持ち出した。タシは村の宴会や祭のときによく私が村人に貸し出した銅製の大鍋を放りだした。ドルジェは脇の下に何かをはさんで持ち出した。おそらくカーペットだろう。ツェリンは牛を杭につないでいた綱を切り、牛を引っ張っていった。ほかの男は馬を引いていった。二人の男は囲いから羊やヤギを出し、そばに並べた。ひとりの男はわれらのテントを背負い、その重さでよろけていた。もうひとりの男はトランクを地面にぶちまけていた。

 私はわが目を疑った。妻と娘も岩の後ろに隠れてこの光景を見ていた。

 ソナムが昨日流していた涙はそら涙だったのか? ツェリンやタシ、ドルジェは私をだましてホームレスの身に落とそうというのか? 世界は裏切りと不誠実な友にあふれている、と私は心の中で考えた。

 私が必死に探し求めた問いに返された答えは、わが家の窓から上がる煙だった。あっという間に家全体が炎に包まれた。炎の舌は夜空を舐めた。暗闇が私の目の前に漂ってきた。妻は叫び声を上げた。

「クダ・カ・シュクル・ハイ、カデジャ。命が助かってよかった」と私はセリフを棒読みした。

 ようやく人々はちりぢりになり、だれもいなくなった。私たちも隠れていた場所を離れて、静かに移動し、頂上に着いた。深い悲しみが疲労と空腹を忘れさせた。

 私たちは翌日なんとか町に着き、おなじように難民になった人々と出会った。私たちの農地や庭、穀物や家畜がその後どうなったかはわからなかった。私たちの村に関する情報はすべてシャットアウトされていた。

 

 こうして二か月が過ぎ去った。ある日、町の中にいると、ソナムが近づいてくるのが見えた。心の底から憎悪が湧き上がってきて、目は血で真っ赤になった。

「何しにきたんだ、ソナム」彼が間近に来たとき、私は顔をそむけた。

「シディク、おれは後悔してるんだ、おまえの家も家財道具も救えなかったんだから。おれたちはあんたの家に火がつけられないようにがんばったつもりだ。しかしどうしようもなかった。だけどガス・シリンダーとストーブは持って出たよ。タシはおまえの鍋を、ドルジェはカーペットを2枚持ち出せた。ツェリンはあんたの牛を救って世話をしているよ。あの夜、おれたちはこっそり焼け落ちたあんたの家に戻ったんだ。鍋やフライパンや穀物の袋二つを持ち出して、保管している。これらはみなあんたの所有物だからな。あんたが村に戻ってくるのを待っているんだ。アンモやドルジェの妻ドルマも、ファティマやカデジャがいないので寂しいって言ってるよ」

 それは朝の風なのか、香りのいい夜のそよ風なのか? だいぶたってから、私はようやくさわやかな風に包まれているような気がしてきた。

 

⇒ 「真の肖像画」(アブドゥル・ガーニー)