自らを語る
<宮本神酒男 民族写真家・宗教民俗研究者>

⇒ 改訂版 

 私の半生のなかで分岐点となったのは、1993年1月末だった。十年におよぶ編集やライターの仕事に一段落をつけ、香港の風光明媚な離島、長洲に居を移し、中国少数民族の研究調査をはじめて1年半、軌道に乗り始めた矢先、私は大きなケガを負ってしまったらしい。

 「らしい」というのは、そのときの記憶がすっぽりと消えてしまっているからだ。私は広西チュワン族自治区北西部の山奥にいた。正確には、街道沿いの村の安宿にいたのだが、山道を半時間歩いた先の、ヤオ族に分類される全人口千数百人という超少数部族の村に行こうとしていた。伝承によれば彼らの祖先はなんと日本からやってきたのだという。日本人がどこから来たか、というのは定番の話題だが、古代日本人がどこへ行ったか、なんて話は聞いたこともない。

 宿に着いた日の夜、突然私の記憶は途絶える。二日後の未明、冷たいコンクリの床に貼りつくように倒れている自身を発見する。よだれがコールタールのように口にまとわりついていた。そこは宿のベッドの真横だった。起き上がろうとしたが、動かせるのは指先だけだった。痛みがあるわけでなく、何が起きたのかすぐにはわからなかった。


バリ島の伝説的バリアン(ヒーラー)、ジェロ・タパカンとともに。

 翌日、私は下の町の病院に運ばれた。公安は何が起こったか調べるために中学校の英語の教師を病室に派遣した。若い男の先生はにこにこしながら、英語で「何があったのですか」と丁寧に尋ねた。

私が「何か上空のUFOみたいなものに乗せられました」とこたえたときの、先生の一瞬ひきつったような表情をいまも忘れない。先生は質問を変え、二、三の当たり障りのないことを聞くと、そそくさと去っていったのである。

 私にとっての唯一の記憶がUFOに拉致され、オペレーションまで受けたことなのだから、どうしようもない。私はアブダクション体験者になってしまったのである。

 しかし現在は、それは一種の臨死体験だったのではないかと考えている。私はその後記憶障害や精神障害に悩まされることになる。一時期、記憶が何分と持たなくなったことがあったし、ブツブツつぶやきながらあたりを歩いていた。いまも街中や電車のなかでひとりごとをつぶやく人を見かけるると、仲間のような気がする。外傷としては腰の強打だけだったが、頭部も打っていた可能性が大きい。

 夢と現実の区別がつかなくなることがあった。睡眠をとらず何日間も雲南省の大理や保山の町を彷徨した。歩くとかならず墓場に到達した。幻覚のなかに生き、死者と話をした。

 この体験が私にシャーマニズムに興味をもたせる契機となったのはまちがいない。シャーマンはウソつきでもペテン師でもなく、ほんとうに精霊や悪魔を見、魂をあつかうことのできる人々だと考えたのだ。

 1991年から私はミャオ族、ヤオ族、トン族、水族、ムーラオ族、ライ族、タイ族、ワ族、アイニ族、ラフ族、プーラン族、クングー族、リー族などの村を訪ね歩いていた。シャーマン的祭司に会うのは93年夏以降のことだ。

 1993年にはもうひとつ、重大なできごとが起こる。その年の5月、私はチベット自治区のラサでデモに参加した罪で国外退去令をくらってしまう。ひっそりと静まり返った八角街(パルコル)の入り組んだ路地を逃げ回ったものの、最終的に私服公安に身柄を拘束された。国外に出たあと、私はインド・ダラムサラでチベット亡命政府に歓迎された。私は政治的なことには関心を持っていないが、皮肉にもこのことがきっかけになってチベット人、およびチベット文化のすばらしさを知り、魅了されることになった。翌年ダラムサラ郊外の森の中にあるツシタ(瞑想センター)でチベット仏教の実践をはじめて学んだ。

 1993年から2000年頃まで私は毎年、青海省同仁県(アムド地方レコン)に通った。ハワ(Lha pa)というシャーマンが主体となる六月祭に興味を持ったからだった。1999年には、ここで600メートル以上の大タンカ(巻き軸画)が作られる様子をTVドキュメンタリーにした。(NHK「チベット大絵巻」)

 おなじ時期(1993~2000年)に通ったもうひとつの場所は雲南省中甸県(シャングリラ県)のナシ族の村、三パだった。トンパは神が憑依してブルブルふるえるシャーマンではないが、智慧の蓄積されたトンパ経典を用いる賢者であり、行方不明の魂を探しだし、死者を送るのを得意とした。

 イ族の地域に何度も入ったのも、だいたいおなじ時期だった。イ族にはピモという祭司とスーニーというシャーマンがいた。両者の境界は曖昧で、イ文字経典を持ち、知識が豊富で儀礼に詳しいのがピモ、神がかりになり、直接的に精霊と交流することができるのがスーニーだが、両者を兼ねる場合も多かった。私は四川省大涼山美姑(メイグー)県の村に滞在し、そのとき調べたことを「黄色い傘」という題で「季刊民族学」に発表した。
 1997年初春、雲南省双柏県に滞在し、老虎節を見ながらイ族の虎崇拝について調べる。

 1994年春、私は四川省北部のボン教寺院(ガメ・ゴンパ)をはじめて訪ね、わずか一週間だがケンポ(寺主)の近くに滞在した。チベットのボン教にシャーマニズム的性格が残っているかどうか確かめるのも目的のひとつだった。
 インド北西部ヒマチャルプラデシュ州のドランジ(難民ボン教徒の本拠地)をたびたび訪ね、滞在することになるのは今世紀に入ってからのことである。。

 この年、ベトナムのカオダイ教にはまりそうになる。カオダイ教にはイエスからチャーチルまでさまざまな歴史上の人物が神様として崇められるが、それは80年前、「教皇」に憑依し、神として顕現したからにほかならなかった。いわばシャーマニズム的なカルトだった。
 2005年は雲南省弥勒県で火祭り(たいまつ祭りとは別物)に参加し、イ族の火崇拝について調べた。
 また貴州省威寧ではイ族の「古代舞」である仮面劇ツォテジを見た。このあと四川省大涼山・雷波県のイ族の村でピモに会い、指路(送魂路)を聞き取りした。

 90年代中盤から2001年にかけて、水木しげる翁と(というかお供をして)世界各地に精霊探しの旅に出た。雑誌「怪」(角川書店)の創始メンバーだった。

 1995年12月下旬、雲南北西部のチベット人のカトリック地域に入り、村でクリスマスを過ごした。しかし公安に拘束され、雪が降って道が閉ざされたこともあり、派出所で数日間拘留されることになった。

 1996年、雲南北西部の奥地、独竜江に入る。当時は四十代後半以上の女性は顔面に刺青を彫っていた。極度の貧困地帯だが、女性ナムサ(シャーマン)の色彩豊かな内面の精霊世界に驚いた

 1997年頃から台湾へは何度も足を運び、とくにタンキーに注目する。媽祖生誕祭は二度見ている。2003年、媽祖の本拠地である福建省○洲島を訪ねた。媽祖は千年前のシャーマンである(○はサンズイに眉)。

 1997年3月、ラダックのマトゥ寺でロンツェンという二人のシャーマン僧のパフォーマンスを見ているとき、あやうく何かが自分に憑依しそうになった。
 この年、夢の中で啓示を受けて、アルタイへ向かった。シベリアには入りがたかったので、中国領内のアルタイであるハナス湖を訪ね、モンゴル人のシャーマン僧と出会った。
 アルタイのあと、青海省で「夢の中で物語を神から授かる」チベット人の吟遊叙事詩人と会った。

 1999年、ネパール・ヒマラヤ中央部のタマン族の地域を踏査する。このときはじめてシャーマン(ボンボ)によってトランス状態を経験した。
 またネパール東部のリンブー族の村を訪ね、その象徴性にあふれた儀礼に感嘆した。ナシ族やイ族と同様、儀礼のときに詠まれる物語は厖大だった。

 2000年、ブディの案内によってバリのバリアンたちと会う。ブディはバリに長年暮らし、すばらしい民族誌的著作をあらわしたフレッド・アイズマンのインフォーマントだった。とくにジェロ・タパカン(上の記念写真)という魅力的な老齢のバリアンと会えたのはうれしかった。

 この時期、スラウェシ島のトラジャにまで足をのばし、大規模な葬送儀礼を連日見た。牛だけで20頭、ブタは100匹以上を屠り、犠牲として捧げた。この地域ではシャーマニズムは消えていたが、魂を送る役目をカトリックの神父が担っているのが興味深かった。


 2001年1月~2月、インド・アラハバードのアシュラムに滞在し、マハー・クンブ・メーラという12年に一度の大沐浴祭を見る。全国各地から一万人以上のサードゥ(修行者)が集まってきた。

 2002年頃、ネパール中央ヒマラヤの村で「美少女シャーマン」と出会う。また二年連続でカトマンズから東へ直線で100キロのカリンチョク山へ登り、多くのシャーマンによる犠牲儀礼を見た。。

 2003年10月、雲南省麗江で開かれた国際学術会議ではじめて「送魂路」という題で研究発表を行う。その少し前から現在にいたるまで、なかばライフワークとして送魂路研究をつづけている。甘粛省・青海省から南へベトナムまで、西および西南へ四川、雲南、ミャンマー、ネパール、インドまでのかなりのチベット・ビルマ語族は、死者の魂を民族の発祥の地に送るという風習を持っている。死者の魂を送るのは、シャーマンや祭司、長老などだった。
 ナシ族、ナムイ族、プミ族は巻物状の「送魂絵巻」(ナシ族は神路図と呼んでいる)を持っていた。
 四川省木里県のナムイ族の村には何度か足を運び、パピ(シャーマン的祭司)のイニシエーション儀礼を見ることができた。
 またプミ族の村の「美女シャーマン」と会う。

 私は「送魂路」を探して、このほか白馬族、リス族、ツァイワ族、ジンポー族、ラワン族、グルン族、ニンバ族、ビャンス(ラン)族などの村を訪ねた。
 インド・ネパール国境地域に分布するビャンス(ラン)族は古代シャンシュンとの関係が考えられる。彼らの葬送儀礼の際よまれる「セーヤーモ」を筆録したものを入手。ヒンディー語の部分を訳出した。

 2004年、シャンシュン研究で知られる飯田泰也氏とともに一ヶ月半、古代シャンシュン国の面影を求め、西チベットやチャンタン高原を調査する。風景のスピリチュアリズムともいうべきものを感じた。

 2006年頃から、チベット仏教ニンマ派の僧でありながら各地で芸能を見せるブチェンという集団(マニパと呼ばれることもある)を追っている。

 1997年からはネパール、1999年からはミャンマー、そして2003年からは西北インド(ラダック、ザンスカール、スピティ、キナウル、ラホール、クル)の調査・研究をつづけている。また最近はパキスタン、とくにバルチスタン(住民はチベット語の一種を話す)の語り部に興味を持っている。

 2007年、パキスタン・ラホールの聖者廟で「スーフィー・ナイト」(木曜の夜、スーフィーたちが集まり、太鼓のリズムにあわせて熱狂的に踊り、陶酔状態に陥る)を初体験した。

 ウイグル文化にも惹かれていた私は同年晩秋、新疆ウイグル自治区ハミ郊外の村でシャーマンの治療儀礼を見せてもらった。しかし当日の深夜、7人の公安がホテルの部屋に入ってきて、私を拘束した。翌朝にはシャーマンをはじめとする村の協力者もみな拘束されてしまう。写真だけでなく、PCのハードディスクごと押収されてしまった。完全にイスラム化しながらも中央アジアのシャーマニズムを色濃く残していて、じつに興味深い内容であっただけに、残念このうえない。

 2007年と2008年、インド西北キナウルのダクライニという一年以内に死んだ家族の魂を送る山の儀礼に参加した。07年の模擬婚礼の花嫁が08年のダクライニの寸前に自殺し、大きなショックを受けた。

 この両年、パキスタン北部からチベットにかけての遺跡や石像、岩絵などを見て回った。ガンダーラとチベットはさほど遠くないのに、その時間的・空間的流れを追った研究はあまりないように思ったからだ。

 2008年夏、神様(ゲパン神)とともに、インド西北ラホールから南方数百キロの山間の村マラナへの巡礼の旅に途中参加する。シャーマン、バラモン各数名も参加していた。マラナではアウトカーストとしての待遇を受けた。

 この年の秋、インド西北キナウルの山中の村で、死者を送る送魂歌(最西端の送魂路だ)が8人のギトガレースによって歌われるのをじかに見ることができた。