アガルタ 

4 シアトルの悲しい潮流 

                          

 どうやってシャスタ山を降りたのか、覚えていないが、山の麓には小さな町があり、モーテルやショップがそろっていた。そこからぼくはバスやタクシーを乗り継いでもっとも近い空港にたどりつき、ほどなくシアトル行きのフライトの居心地のいい座席に腰を落ち着けていた。

 ぼくは母や妹のことを考えていた。乗務員が飲み物のカートを押しながらやってきたとき、わが頬の上を人知れず涙が伝った。ぼくが覚えている母は、すみれ色の目を持ち、なめらかな、バラのような顔が白髪のほんのり混じったブロンドの巻き髪に囲われた、とても背が高い美しい女性だった。わが愛する母はたんに魅力的であるだけでなく、思慮があり、心あたたかく、愛情豊かだった。 

 そして誇らしい妹、赤毛のおてんば娘、おチビちゃんには、まだまだ兄の保護が必要だった。妹は好んで友だちと口論するようなところがあった。ぼくが家を出たとき、彼女は17だった。男の子からどう見られているかが気になる年頃だった。こんな家族がぼくのすべてだった。そう、家族に会いたくてたまらなかったんだ。

 家に近づけば近づくほど、不安は大きくなっていった。もうまもなく到着しようとしていたが、財布は十分に膨らんでいた。これについてはあとでまた説明しよう。出発したときよりも、ぼくは賢くなり、着こなしもうまくなっていた。でももちろん公海上でお金儲けができたわけじゃない。まあ、真実を話すということは、あくびをかみ殺さなければならないということだけど。じっさい、ぼくはよく覚えている。真実を話すためにぼくはここにいるんだ。ふうっ! ボリュームのある機内食をやっと食べ終えたとこ。それがビーフでなくてよかった。野菜がたっぷり添えられたチキン・スライスだった。ベジタリアンの食事に慣れたら、普通の食事、とくに肉には胃が反応してしまうものだ。

 ぼくはシアトル空港をよく知っていた。シアトルは海岸にあり、ぼくの家は貨物船がもやってある大きな港に近かった。この地域のほかの家とおなじく、ぼくの家にも桟橋がついていた。エアポート・タクシーから降りると、もっともご機嫌な口笛を吹いていた。なんて気持ちがいいんだろう! 子供時代のいとしい我が家に戻ってきたのだ。

 玄関のベルを鳴らした。ドアの取っ手にキスして、もう一度ベルを鳴らした。妹とぼくだけが知っている信号を鳴らした。でも応答なし。母もチビも外出しているのだ。ぼくはもちろんカギをもっていない。そのとき知っている女性の声が聞こえた。隣の家のビッグ・ティリーと呼ばれる親切な女性の声だ。振り向くと彼女がそこにいた。

「ほんとうにティモシー・ブルックかい? おぼれたんじゃなかったのかい? それとも亡霊かね」

「ぼくは生きてますよ。ほら、二本足でちゃんと立っている。助かったのはぼくひとりだったんです。でも家族と連絡を取ることができませんでした。みんなどこにいるのかご存知ですか?」

 ティリーが気絶するんじゃないかと思ったので、ぼくの長い手を彼女の肩に回した。彼女はわっと泣き崩れた。

「あなたがいなくなって三年もたつわ」彼女は鼻をすすった。「あなたのお母さんも妹さんも亡くなったのよ。妹さんはひそかに結婚したの。そしたら悪夢のようなニュースが飛び込んできたの。結婚してから六か月後、お産のときに妹さんは亡くなってしまったわ。あなたのお母さんも難破のニュースを聞いて病気になり、数か月後に亡くなってしまった。悲しみのあまり死んでしまったんだと思うわ。だって家族全員を失ってしまったんだから。この家はもう長い間売りに出されている。でも買い手がついていないの。思うにこの家はあなたのものね。義理の弟であるバーティーはバンクーバーに行ってしまったし。あっちで再婚したんじゃなかったかしら。
 あなたのお母さんの弁護士の住所を持ってるわ。遺書を残してるかもしれないから、会ってみて。さあ、お茶を入れるから、中へ入って。考えがまとまるまで、ここで休んでいくといいわ」

 親切な老いたティリーといっしょにぼくは外へ出た。冷たい手がわが心臓をぐっとつかんだ。ぼくは天涯孤独の身だった。自分しかいなかった。世界でこんなに孤独な人間はいないだろう。ぼくはティリーの家のソファに沈み込むようにすわって泣いた。今度の涙は幸せの涙ではなかった。自分があわれでならなかった。そう思ったところで慰めにもならなかったけれど。ぼくは悲嘆に暮れるばかりだった。でも悲しい知らせばかりだからといって実行すべき困難な使命を忘れるわけにはいかなかった。

 ティリーはほんとうに助けになった。彼女はすぐに弁護士を呼び、ぼくは家の鍵を取るためにタクシーに乗った。遺産を継ぐ人がいないことを証明しないかぎり、彼は家を売ることはできなかった。弁護士はあわてて調査する必要がなかった。ぼくがもどってきて、ティリーがぼくの保証人になってくれると知って、彼は安堵したようだった。頭の上に屋根がかかったようにぼくは感じた。

 空き家になったわが家に入るのはじつにおかしな気分だった。昔の自分の寝室は去った時のように埃っぽく、乱雑だった。チビの部屋はまったく変わっていた。ゆりかごをはじめ、赤ん坊に必要なものがそろっていた。ゆりかごはたぶんぼくたちが使っていたお古なんだろうけど。テーブルの上には編みかけの赤ちゃん用カーディガンが投げ出されていた。いかにもお母さんの作品って感じだ。

 大きな暖炉がある心地いい居間にぼくは腰を下ろし、何をすべきか考えた。この家は売るべきだろうか、それとも聖域として残すべきだろうか。しばらくは残しておこう、とぼくは決めた。少なくとも旅がはじまるまでは。ぼくは暖炉に火をつけ、お父さんの肘掛け椅子に坐った。ほどなく眠りに落ちた。

 ティリーと彼女の夫ハリーはすばらしかった。子ども時代から知っているハリーは無口で気難し屋だったが、いま過剰なほど友好的で、ぼくの背中をポンとたたき、歓迎の意をあらわした。ハリーとティリーは近くで魚屋を営んでいた。客の入りは多く、いつもとても活気があった。彼らの商売はうまくいっているようだった。

 ぼくが料理を作れないとみなし、ティリーは定期的においしい手料理を作ってくれた。もしビーフかポークなら捨てざるをえなかったけれど。テロスで何年も――数日のように感じられたが――シンプルなベジタリアン料理ばかり食べていたので、肉を受け付けない身体になっていた。

 しばらくたったある日――その日をぼくは休日とみなしていた――家族の墓参りをし、近くの野原や森を散策した。そして家に戻るとキッチンにすわり、自分自身に問いかけた。「どこからはじめたらいいんだろう」ぼくはため息をついた。

 壁の向こうでぼくの洗濯物を洗っていたティリーがすぐさま割って入ってきた。「前の友人たちはどうしたの?」と彼女は声を張り上げた。「こういうのはどう? 地元紙に電話をするの。で、あなたが死者の世界から戻ってきたっていうの。<死からよみがえった>ってなかなかいい響きでしょ?」

「まあ、そうだけど、そうやって近づいてくる人々って、ぼくがもっとも会いたくない人々なんだよ」と同意しなかった。「むしろぼくは何人か溺れさせてしまったんだ。彼らがだれかもわかっているし」

 ぼくはティリーとハリーにテロスのことを話した。反応はとても素朴なものだった。ハリーは心から笑い、ぼくの背中をポンとたたくと言い放った。「おまえは父親そっくりだな、たしかにぶっ飛んでるな!」。ティリーは話については何も述べず、母親がどれだけぼくと会いたがっていたか、難破したことを知ってどれだけ泣いていたかについて話した。ぼくは気分が滅入ってしまった」

 でもティリーは正しかった。彼女が地元紙に電話を入れると、すぐにレポーターがやってきた。ねずみ色の短髪の中年女性レポーターにたいし、ぼくは真実を語ることに決めた。彼女は一生懸命にぼくの話に耳を傾け、メモ帳に書き込み、ぼくの子供時代についてたずねた。このことが疑念を呼び覚ました。でもぼくはテロスについて話しつづけた。

 数日後、海を背景にしたぼくの大きな写真とともに記事がでかでかと載っているのを見たときの驚きぶりを想像してほしい。ぼくの子供時代の話は彼女にしゃべったとおりだった。でも地球の内側を訪ねたことについては脳震盪のせいにしていた。船が沈んだときに木材で頭を打ったのだろうという。彼女は読者が離れていくのが恐かったのだ。ひどい記事だったが、初期の目的を達するのに役には立った。

 わが「誇り」が記事になったその日、何件もの電話が寄せられた。そのうちのひとつの電話がとてもうれしかった。それは学校時代の親友、マシューからだった。彼はできるだけ早くぼくと会いたがった。彼はいまもシアトルにいて、歯科医を営んでいた。彼はぼくを夕食に招待した。彼は結婚し、ふたりの娘に恵まれた。もっとも早い機会にぼくは彼の家を訪ねた。

 ぼくたちはハグしあった。背の高さはおなじくらいだったが、彼はがっちりして、赤毛の髪が薄くなっていた。髪の毛にちなんで彼はレッド・マット(赤毛のマット)と呼ばれていた。顔は今もそばかすだらけで、灰色の目は生き生きと輝いていた。胴回りは丸くなり、満たされた生活がうかがえた。

 茶色の目をした茶色の縮れ髪の妻はといえば、あきらかに妊娠しているのだが、人形のようにかわいらしかった。幼い娘は父親の赤毛とそばかすを受けついでいた。すでに魅力を発揮していて、いずれは美人になりそうだった。でもぼくは自分自身のやんちゃな赤毛の妹のことばかり考えていた。ぼくは大きなため息をついた。

 マットと家族はとても素敵な庭がついたかなり大きな屋敷に住んでいた。シアトルの豊富な雨は空から落ちてきて川となり、葉っぱの上それぞれに水たまりを作った。ぼくはようやくくつろぐことができた。

「で、この三年間どこにいたんだい?」ドリンクを持ってベランダにすわったときマットはたずねた。「新聞ってのは、くだらない話ばかり載せてるからね。地球に空洞があるとか。地学の先生は冗談で言ってたけど」

「この話は夕食のあともう一度できないかな」ぼくは答えるかたちでそう言った。「ぼくの話を信じてくれるかどうか自信ないな」

 ちょうどそのときこちらに戻ってから何度か体験した、おなじ奇妙な、説明しがたい感覚に襲われた。それはぼくの体を貫く強烈な熱のようだった。そしてぼくの目の前でちらつく光のようだった。このエネルギーを送っているのがマヌルであることをぼくは知っていた。シャスタ山の入り口で別れを交わしたあと、ぼくはこの感覚に圧倒されていた。

「頭が光ってる!」幼いエリノアが素っ頓狂な声を上げた。マットの娘がぼくのかたわらに立ち、興味深そうにぼくの頭を見上げていた。娘は4歳だった。ぼくたちの船が沈む前にマットは結婚していた。

「さあ、おいで! 食事の準備ができたわよ!」マットの妻、ナンシーの声が聞こえた。

 ぼくはエリノアの手を握って、マットのあとからダイニングに入っていった。「ベランダの明かりがぼくの頭の後ろで光ってたんだと思うよ、赤ずきんちゃん」とぼくは子どもにささやきかけた。しかし彼女は唇をとがらして首を振った。

「うしろには背の高い男の人がいたよ」遠慮を知らない子どもはつづけた。「男の人はあなたの友だちだって言ってた。名前は言わなかったけど。あなたはスウェーデン人でしょう?」

「そう半分はスウェーデン人。もう半分はここだけど」ぼくはニヤッと笑った。話題を変えることができてうれしかった。マットの娘はあきらかに千里眼の持ち主だった。夕食のあと、そのことをマットに告げようとぼくは考えた。そのことについてマットは娘をこわがらせる必要はなかった。それは天の贈り物だった。まれで、驚くべき贈り物だった。しかしそれはいともたやすく重荷となった。

 ナンシーの手料理はとてもおいしかった。魚料理はとくにおいしかった。そしてレモン・プディング。それは雲が霧散するように口の中で溶けるのだ。ナンシーが娘を寝かせるために階上に上がっていったとき、居間にすわっていたマットはぼくにたずねた。「おばあさんに孫は生きているって知らせたかい?」

 ぼくは熱くなり、冷たくなった。愛するおばあちゃん!どうしたらおばあちゃんのことを忘れることができるだろうか。こちらに戻ってからほぼ一週間がたつ。おばあちゃんはスウェーデンに住んでいる。ダラルナ州のフローダという村だ。70代の驚くべき老婦人である。超常現象に興味があり、ことあるごとにカードを使って占いをしている。

「あす、最初にやることはそれだ」混乱する表情を浮かべたぼくを見ながら、マットはせかした。「きみがとても奇妙なものを見てきたことは理解できる。病気になったとも思えないし、やつれているわけでもない。いたって健康そうに見える。通常ではない体験は人を混乱させるものだ。そしてすぐに忘れてしまうものだ。だからそのことを話してくれないか」

「会いにいかなくちゃ」ぼくは気持ちをおさえきれなかった。「おばあちゃんにね。おばあちゃんならぼくの話を信じてくれると思う。マット、きみにも話そうと考えている。信じられるかどうかは、きみしだいだ。でも絶対にあったことだと自分では信じている。混乱なんかしていないよ」

 ぼくは経験したことをすべてマットに話した。マットはカップをコーヒーとブランディで満たしたが、一言もしゃべらなかった。彼の灰色の目は開かれていた。そしてそれは少年時代、禁じられた悪ふざけをしていたことを思い出させた。テロスについてぼくはくまなく話した。話し終えたころ、ナンシーが戻ってきて腰を下ろした。ぼくはだまったまま、嘆願するような目で旧友を見ていた。

「それで、どう思う?」とぼくはたずねた。マットは赤いモップを動かしながら笑顔を浮かべた。

「ティム、おれは信じるよ」一呼吸置いて彼は言った。ナンシーはいぶかしそうにぼくとマットの顔を交互に見ていた。「おれは信じるよ、留保づきだけどね。あすは日曜だ。10時ごろには来られるだろうから、いっしょに散歩に出て、もっと徹底的に話し合おうじゃないか」


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