(4)アイリーンの不幸な生い立ち

 アイリーンの母、アン・ブローネルはスペイン旅行中、バスク人のアンソニー・バンチョと出会い、結婚した。彼はカトリックで、アンの家族から見ると、敵とは言わないまでも、よそものだった。

1893年3月17日、アイルランド・ミース州にアイリーンは生まれた。二週間後、母アンは石造りの小さな住まいに近い井戸に身を投げて死んだ。その二週間後、ダブリンの事務員であった父親が職務中に自らを拳銃で撃って自殺した。取り残された赤ん坊は、インドで軍務についていた厳格な長老派クリスチャンの叔父ウィリアム・リトルとアンの姉妹であるマーサの夫婦に引き取られた。赤ん坊の正式な名前はアイリーン・ジャネット・リトル、愛称はジーニーだった。

 叔父のウィリアムは灰色の目、灰色の髭、白い髪の背が高く孤高な人物だった。マーサ叔母さんは背が高く、彫像のようで、魅力的だったが、冷淡で姪にたいして母親ぶるところはなかった。髪は重くて茶褐色だった。いつもパリパリしたタフタ織りの服を着ていて、紐つきのメガネを垂らしていた。人をよせつけない美しさがあり、アイリーンはそんな叔母を恐れていた。

 スタッカレン橋の近くにあった叔父の二階建ての茅葺農家は、家族メンバーが増えるにしたがい次第に大きくなった。アイリーンにとっては巨大な家だった。家の側面はバラや忍冬(スイカズラ)に覆われ、農地には家畜がたくさん群れ、家畜小屋は家畜であふれんばかりだった。アイリーンの部屋は螺旋階段の上にあり、天井は傾いていた。部屋はバラであふれた庭に面し、ほかの花々やリンゴの木の香りが漂っていた。そこはシェルターのようなものだった。家具や壁の上に絵があり、彼女がそれに触れると物語を奏でた。叔母にこれらの物語や小さな老婦人のことを話すと、叔母は作り事を言うなとなじった。絵に描かれているのがアイリーンの両親であることを叔母が教えたのは彼女が10歳になってからのことだった。

 4歳になる前に学校へ通うようになった。アイリーンは3人の友だち(ふたりの少女とひとりの男の子)が戸口にやってきて遊びたがっていると話すようになり、叔父と叔母を困惑させた。彼女は見知らぬ子供たちと遊ぶのを禁じられたが、言うことを聞かなかった。翌日子供たちがやってきて、何も言わずにアイリーンをじっと見ていた。子供たちは家の中で遊ぶこともあったが、大半は外に出て野原で遊んだ。彼女が13歳になるまで子供たちはずっと友達だった。アイリーンは叔父と叔母に子供たちのことを話したが、いつも無視された。叔父夫婦に子供たちは見えなかったのだ。アイリーンは子供たちに触れば柔らかくて暖かいと主張したけれども、叔父夫婦は信用しなかった。アイリーンに言わせると、普通の人々はオーラのような光に包まれているが、この子供たちは存在そのものがこの光でできていた。

 子供たちは自由に現れ、ぱっと消えた。読んでいる本から顔を上げた時や庭で花を見ているときに現れた。木登りやボートをこぐときは現れなかった。アイリーンは子供たちといっしょに庭や野原を駆けまわり、木々や石、藪、鳥、ベリー、蝙蝠、犬、羊などについて学んだ。

 親戚の人々もマーサ叔母さんに同意し、アイリーンをうそつきか行儀の悪い子供とみなした。このことはアイリーンの心を傷つけた。彼女がほかの人々とは違った感性をもっていることに周囲の人々が気づくまで、かなりの年月が必要だった。


 アイリーンの両親にいったい何が起きたのだろうか。母アンはスペイン旅行中に夫のアンソニーと出会ったとされるが、このことからも奔放な女性のイメージが浮かんでくる。しかも夫はバスク人だという。バスク人はその言語も文化も周囲の民族とは大いに異なっている。起源は「クロマニョン人説が有力」(ジャック・アリエール)とされるほどなので、裏を返せばあまりよくわかっていないということなのだろう。イエズス会創設者イグナティウス・デ・ロヨラや日本に伝道したフランシスコ・ザビエルもバスク人である。アイリーンの「異邦人」的な感覚は父親からその遺伝子を受け継いだのかもしれない。

 母アンはなぜ井戸に身を投げたのか、父アンソニーはなぜ後追いするように拳銃自殺をしなければならなかったのか、それを知るすべはない。どんな事情があるにせよ、生まれたばかりのアイリーンにとっては捨てられたも同然である。継母からイジメを受けるのも、実母を亡くした悲しさから彼女自身が反抗的になっていたせいもあるだろう。客観的に見た場合、かならずしも叔母がアイリーンを嫌っていたようには思われないが、継母と娘との間にはつねに水面下の抗争がつづいていた。こうした家庭環境だからこそ霊媒は生まれやすかったともいえるだろうか。



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