(11)マッケンジーのカレッジ創設
マッケンジーは1916年、計画通りに心霊学の学校(のちの英国心霊科学カレッジ)を創設した。米国へ行くのも計画の一部だった。英国は第一次大戦の三年目に入っていたが、どうにか米国行きの船に乗ることができた。彼はニューヨークやほかの地域で霊媒を探した。
彼はさまざまなオピニオン・リーダーたちと論議をかわした。コロンビア大学の哲学教授で米国サイキック研究協会のディレクターを務めたジェームス・H・ヒスロップ博士はそのひとりだった。またロンドン・サイキック研究協会元会長でオールド・ボストン・サイキック研究協会の創立者のひとりであるウォルター・フランクリン・プリンスも含まれていた。
マッケンジーは有名な透聴術ミディアム、アルミラ・ブロックウェイを説得することに成功し、ロンドンに連れてきてその降霊会やサイキック能力をデモンストレーションした。不幸なことにあるジャーナリストのだまし討ちに引っ掛かり、ブロックウェイ夫人は浮浪罪と黒魔術禁止法の罪で逮捕されてしまう。占いによって人をだまし、お金を得ていたというものだ。マッケンジーはアメリカ領事館に釈放するよう求めたが、夫人は一週間ほどハロウェイ刑務所に収監された。彼女は出獄したあとすぐ米国に戻り、英国には二度と来なかった。この事件によってマッケンジーは重要なパトロンたちを失うことになった。彼は英国心霊科学カレッジをひとりで設立しなければならなかった。
カレッジは1920年、ケンシントン地区の交通の便のいい静かな場所が選ばれた。その石造建築には25の部屋があった。ライブラリーにはサイキック関係の本や資料がたくさんあり、降霊術ルームは霊媒たちが自由に使えた。そのほかレクチャー・ホール、相談室、マッケンジー夫妻用オフィス、幹部スタッフ用オフィス、ヒーリング特別室、写真スタジオ、教室、マッケンジー夫妻や学生を含む長期滞在者用宿泊施設などがあった。世界中から集まる訪問客のなかには六か月の滞在に及ぶ者もあった。
研究コースにはつぎのようなものがあった。サイキック(心霊)科学、霊媒術、占星術、ダウジング、筆相学、ヒーリング、催眠術、瞑想、手相学、骨相学、テレパシーなどである。
メンバーには相応の給料が払われ、病人は退去や休暇の権利を与えていた。すべての霊媒は年棒を受け取り、個別の降霊会でも謝礼をもらっていた。霊媒、とりわけアイリーンのようなのちの著名な霊媒は、その能力に応じてギャラを受け取った。アイリーンは週に15ポンド以上もらっていたが、贅沢ではないにしろ、1920年代のイングランドにおいては十分だったといえるだろう。
ロンドンのファッショナブルな街並みのなか、このような給料や仕事場の環境は霊媒の立ち位置を大きく押し上げた。マッケンジーは霊媒たちの他の世界とのコミュニケーション能力や霊的パワーに恐れ入る思いだった。彼はそれを黒魔術やいかさまのはびこる場所から表舞台に出そうと決心した。
ジェームス・ヒューワット・マッケンジーはカレッジの初代名誉学長であり、妻バーバラは名誉秘書だった。のちにマッケンジーの伝記を書くミューリアル・ハンキーはマッケンジーの個人秘書であり実践面での協力者でもあった。最初の二年間、マッケンジーはカレッジに金を貸すことはなく、一千ポンドの助成金を受け取っていた。1922年には授業料や寄付によってその額を大幅に下げることができた。とはいえつねにマッケンジーからのある程度の供出はつづいた。
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