(14)もうひとりの人格アブドゥル・ラティフの登場

 アイリーンはいまや世界の三本指に入る霊媒と目されるようになっていた。つねに彼女は必要とされていた。1930年11月、R101が墜落したとき、ハリー・プライスはもっとも客観的な、もっとも科学的な精神をもった霊媒を探そうとした。選ばれたのは当然アイリーンだった。彼はまた最近死亡したばかりのコナン・ドイルとコミュニケーションを取りたかった。この降霊会はアイリーンの名を世界に知らしめることになった。

 彼女は成功や名声に満足することはなかった。トランスのときにウヴァーニが明らかにしたことに対し、アイリーンは何ら責任を負わなかったが、人々がすることに対して責任を感じていた。彼女は霊媒によって人々を助けたいと考えていたが、彼女やウヴァーニへの依存を強めることになった。つまり人々が自発的に元気づくようには導けなかった。これが霊媒術であるなら、人の絶望や恐怖の感情を利用しているのではないかと思えた。こんな実践はすべきではないだろう。

 アイリーンはパラチフスにかかり、治ったあと二度の手術を受けた。長い回復期においてトランスや降霊術から離れていたためか、霊媒術がもたらす疲労がなくなった。そして「光と音と動きの世界」を発見した。色のバイブレーションを活用することによって彼女は自分自身を治療することができた。ロンドンの友人たちのもとに戻ったとき、彼女はとても健康そうに見えた。彼女は魔術的なパワーを身につけたのだから霊媒をつづけるべきだと人々は言った。活動を再開するとまた顧客がやってきた。なかにアイリーンの名を聞いてははるか遠くから来る客もいた。

 1930年、アイリーンが37歳のとき、あらたな人格が生まれた。その名はアブドゥル・ラティフ。1162年にバグダッドに生まれ、イスラム世界を旅しつづけ、1231年に没した偉大なる医者だった。一時期はエジプトのスルタン、サラディンの宮廷に専属医師として仕えていたという。ウヴァーニと違い、アブドゥルは数世紀の間医師としてだけでなく学者、哲学者としても知られていた。医学、歴史、論理学、植物学、物理、音楽、純文学、鉱物学、解析学などについてアラビア語、ヘブライ語、ヒンディー語、ギリシア語、ラテン語、コプト語、フランス語、ドイツ語、イタリア語などで書き表した。医学の本の題は『人間の身体』だった。そのほか『エジプトの歴史』や文献学、論理、修飾学について書いた40以上の著作があった。

 アイリーンの客たちはアブドゥルを礼賛した。健康やヒーリング、日常生活への哲学的アプローチなど以上に死後存続や死者との対話、念力を強調していないことにアイリーンは驚かされた。彼女はアブドゥルがやってきたのは、顧客がいままでと異なる問題を抱えているからだと考えた。死者からのメッセージを求める人々がいるにはいたが、いまではそれほど多くはなかった。緊急のメッセージとなると求める人はほとんどなかった。マッケンジーがカレッジを創設した頃と時代は変わり、人々は人生の意味や目的を問うようになっていた。知恵をもつアブドゥル・ラティフは時勢にかなっていたのだ。

 シャルロッテスビルにあるヴァージニア医学校の超心理学部の部長を務めた精神病理学者、イアン・スティーブンソンがアブドゥルという人格のもうひとつの側面について語っている。アイリーンが超心理学財団の団長についたとき、スティーブンソンは転生についての調査費用をまかなうべく助成金を申請した。そのとき彼女自身は転生の重要性がよくわからなかったので、アブドゥル・ラティフに助言を求めた。アブドゥルの答えは「スティーブンソンを助けよ」だった。そして助成金が是認された。ふだんのアイリーンは、転生の研究は時間の浪費と考えていた。しかしアブドゥルという人格はアイリーンと意見を異にしていたのだ。

 アイリーンとアブドゥルの考えが一致することもあった。ある有名な政治家が選挙キャンペーンについての意見を求めてきた。アイリーンは、若い勢力が台頭してきているので出馬すべきではないとアドバイスした。政治家は納得せず、彼女にもういちどトランスに入ってもらい、アブドゥルを呼び出してもらった。アブドゥルもまた出馬すれば敗れるから出馬すべきでないと進言した。政治家はしかし、あきらめきれず、出馬し、選挙は敗北に終わった。

 1930年にアブドゥルが加わったことは大きかったが、成功すればするほど霊媒にたいする確信が揺らいでいった。友人らはアブドゥルと話したがった。アブドゥルは言った。「これはさらなる発展の過程にすぎません。しかし、いずれは霊媒をやめることになるでしょう」

 アイリーンは、アブドゥルは間違っていると思った。彼女は活動をやめ、すべての顧客に断りを入れた。ジェームス・W・ギャレットとの結婚も終わりを迎えた。そして長年のつきあいのある心暖かい友人との再婚に同意した。しかし昔息子が死んだときと同様、「あなたの幸福は長く続かない」という声が聞こえた。まもなくして彼女もフィアンセも入院した。彼女は乳様突起炎で、フィアンセは肺炎で。一週間後、彼は死亡した。アイリーンの容体も芳しくなかった。乳様突起だけでなく、盲腸破裂を患っていたのだ。医者の話では麻酔をかけられたあと、彼女はヒンディー語をしゃべっていたという。医者はインドに長く滞在していたので、ヒンディー語に通じていたのだ。オリエンタリストのG・R・S・ミードはのち、アブドゥル・ラティフと対話しつづけていたこと、また手術中アブドゥルがずっとそばにいたと語ったことをアイリーンに伝えた。

 病気をしてからというものアイリーンの心身は衰弱しきっていた。それでも霊媒の仕事に戻ったのは、彼女がトレーニングを受けていたからだった。彼女は38歳になり、15歳になった娘のバブスは娘というより仲間だった。子育てに専念する必要はなく、研究と実験に時間をさくことができた。そんなおりにアメリカ心霊研究協会(American Society for Psychical Research)からインビテーションが届いた。1931年、アイリーンとバブスはニューヨークに到着した。


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