(15)トニー・バーマンの霊

 アイリーンはアメリカではすでに有名人物だった。R101事故の驚くべき解明の記事は何百万人ものアメリカ人が読んでいたし、ほかの降霊術やゴースト・ハンティングやポルターガイスト追跡についても何千人もが知っていた。それだけでなく、鬢を油でかためた黒髪、ふっくらした顔、ブレスレットや指輪をつけたその姿をだれもが知っていた。アカデミズムの世界でも有名人だったが、大衆をたきつけていたのは雑誌や新聞だった。

 1926年のトニー・バーマンの件はよく知られるエピソードだ。トニーは英国の女優イザベル・ソーントン(バーミンガムのハリー・バーマンの夫人)の息子だった。バーマン夫人はロンドンの心霊主義者同盟の降霊会に出席していた。終わりに近づいた頃、ウヴァーニが言った。

「マダム、あなたの傍らにもっとも小さな息子さんが見えます。何かトラブルがあったようですが、心配しないでと言っています」

 夫人は困惑した。ふたりの息子がいたけれど、下のトニーでも20歳だったのだ。しかしそれはウヴァーニが英語をよく知らないことから起こる誤謬だった。下の(younger)というべきなのに、もっとも小さな(littlest)と言ってしまったのだ。こどもはふたりいるけれど、小さな息子はいないと夫人が告げると、ウヴァーニは「メッセージだけお伝えします。おそらく私は正しいでしょう」と言った。ウヴァーニはすでに亡くなっているバーマン家の古い友人からメッセージを預かったのだという。その友人からのもうひとつのメッセージは、夫人にある本のある一節を読んでほしいというものだった。その夜夫人が劇場にもどると、トニーがバイク事故にあいケガをしたという内容の電報が届いていた。その事故は降霊会の一時間あとに起こっていた。翌日トニーは息を引き取った。

 バーマン夫人は帰宅した夜、ウヴァーニが示した本を参照しなかった。トニーの死から一週間後、夫人ははじめてその本を開いた。それには次のような一節があった。

『彼は人の土地には二度と来ないだろう。また妻を娶ることはないだろう』

 ウヴァーニがこの一節を示したとき、トニーはまだ死んでいなかった。それは予知であり予言だったのだ。

 ウヴァーニはトニーの死後もメッセージを受け取り続けた。心霊現象ライターのニア・ウォーカーはトニーとコミュニケーションを取った。彼女は生前のトニーに会ったことがなかったが、母親や家族の友人らと親しかった。

 1927年11月8日、ニアが心霊科学カレッジで開かれた降霊会に参加したとき、ウヴァーニがトニーのメッセージを彼女に伝えた。一周忌(メモリアル)のときに母親が使おうとしていた「死」ということばがトニーは気になっていた。母親はのちそのことを聞いて「死」ということばを避けることにしたという。トニーはまた母親の健康状態を気遣っていた。「睡眠から離れている」という独特の言い回しを使った。実際、母親は背骨の痛みのため眠るのが困難になっていた。トニーはまた安物腕時計のことを冗談まじりに口にした。その時計はトニー自身が買ったものだが、いつも不正確で兄弟のスティーブンや母親はいつもそのことでからかっていたのだ。その腕時計は古い写真や思い出の品といっしょに木箱のなかにはいいっていると知らせた。スティーブンと母親が帰宅して調べると、たしかに腕時計は木箱のなかにあった。

 ウヴァーニはさらにトニーのメッセージを伝えた。

「トニーはあなた(スティーブン)に、家では無線ラジオが好きで音楽も好きだった、とお母さんに伝えてほしいと言っています。夕方、お母さんがいつもの椅子に坐っているとき、トニーはいつもそばにいます。お母さんの話すことを聞いています。トニーは長距離間のコミュニケーションにとても興味があります」

 おなじ月、母親と姉妹のメーベル・フランスがアイリーンのもとを訪ねると、ウヴァーニは言った。

「トニーは背が高く、ふっくらとしていて、楽しそうに笑っています」

 バーマン夫人はとても面白がり、こう言った。

「息子はたんにデブなのよ」

 トニーはすかさずウヴァーニを通してこたえた。

「かっぷくのことは何も言ってないよ。だから仲介者には釘を刺しておいた。ぼくは自分の寸法が好きなのだけどね」

 ニア・ウォーカーは「トニー・バーマン・ケース」という一文のなかで(『心霊研究協会会報』1929年8月)アイリーンの降霊会のことを記している。

「ギャレット夫人(アイリーン)に関するかぎり、降霊会は匿名で行われた。彼女は私のことを知らなかったし、私も何も知らなかった。私はギャレット夫人に会ったことはなかったが、彼女が語っていることはおおよそまとを得ていた」


⇒ NEXT