(17)アイリーンの霊媒としての活動
1931年にニューヨークに上陸してすぐ、アイリーンはアメリカでもっともよく知られ、毀誉褒貶なかばした霊媒、ボストンのマージェリーことミナ・スティンソン・クランドンと会い、ヒスロップ・ハウスで降霊会を開いた。座ってすぐアイリーンがトランスにはいると、ウヴァーニが現れた。
「あなた(マージェリー)はパワフルな霊媒にちがいありません。肉体的霊媒であるとともに精神的霊媒でもあります。思うに、肉体的ですね」
マージェリーが答えないのでウヴァーニはつづけた。
「とてもバイタリティーに富む若者が現れました。彼はこの部屋の中を行ったり来たりしています。あなたにやさしくほほえみかけています。彼は言います。マージェリー、あなたはとてもいい友人だ、だからアドバイスをくれないか。私はカリフォルニアで死んだ者だ、と」
「セロンね! セロン・ピアスなら、以前にも来たがっていたわね」とマージェリーは言った。
「ほかの霊媒は証明できなかったけど、こんどはチャンスよ。質問に答えて。いっしょに旅行したとき、私はあなたとミスター・ブライ・ボンドのことを何と呼んだかしら」
「マットとジェフです」と即座に正確な答えが返ってきた。マージェリーは興奮して、まどろむ霊媒を通してしゃべる自称セロン・ピアスを待たせて、階下のブライ・ボンドを呼びに行った。やってきたブライは10分ほどピアスとおしゃべりをした。そのあと、依然としてトランス状態にあるアイリーンは、生きている人や死んだ人のメッセージをマージェリーに伝えた。のちにマージェリーは、それはテレパシーではなく、とても高い秩序をもった霊媒術だと認めた。
スタンレー・ラインハート博士が死んだのは1932年のことだった。妻マリー・ロバーツ・ラインハートは彼の部屋に入り、ベッドに腰掛けた。彼はいつもこのベッドに寝ていた。マリーは何度も夫の手を取った。しかしいまベッドはからっぽで、静かだった。彼女の自伝『私の物語』のなかで彼女は述べる。「その瞬間死が終わりであることを感じ、夫が永遠に去って行ったことを悟った」
しかし彼らは心霊研究をすこしかじっていたので、もしどちらかが死んだ場合、交信を試みるという約束をかわしていた。夫が死んだあとラインハート夫人は霊媒に夫の霊を呼び出してもらい、部屋の中に死者の存在を感じ取ることができたのである。
それから2年後、ニューヨークのパーク・アヴェニューのアパートで三人の息子スタンレー、アラン、テッドとともにアイリーンと会い、お茶を飲んでいた。彼らと会うのはアイリーンにとってはじめてだった。
彼女は突然話をとめ、カップを置き、「できるだけのことをしてみます」と言ってトランスに入った。すぐにウヴァーニがあらわれ、いつもの切り口上をはじめた。
「ご機嫌うるわしゅうございます、友人諸君。わたくし、ウヴァーニでございます」
ラインハート夫人はその話しぶりを「第一級のおしゃべり」と形容している。しかしなによりも驚いたのは、彼らがよく知っている父親あるいは夫の口調がギャレット夫人(アイリーン)の口から出てきたことだった。その声、話すときの癖、クスクス笑い、それらはスタンレー・ラインハート博士そのものだった。
超心理学財団創立から時がたち、定期的にトランス降霊をする必要もなくなった頃、アイリーンは個人的な事案に取り組むことがあった。1966年にローレンス・ルシャンから持ち込まれたのもそうした個人的な事案だった。彼はニューヨークの連合神学校で精神医学と宗教のプログラムを担当する心理学者であり、アイリーンとともに超心理学財団で心霊学の実験をしていた。ルシャンは行方不明になっている医師のBドクターのことで助けを求めた。
Bドクターは医学の会合に出席するため中西部の家を出たまま何日間も音沙汰がなかった。ルシャンはBドクターのことを知らなかったが、妻の友人の主人だった。ドクターの妻が最後に得た情報は、1966年2月24日にあるホテルにチェックインし、午後5時にチェックアウトしたことだった。3月18日、ルシャンは家を出る一日前にドクターが来ていたシャツの一部をニューヨーク西57番街の財団オフィスにもってきてアイリーンに見せた。ルシャンはアイリーンにただ行方不明者のシャツの一部と説明しただけだった。彼らはリサーチ・ルームに入り、アイリーンの秘書がテープレコーダーを準備した。彼女がトランスに入ると、ウヴァーニが現れた。ルシャンは言った。
「ある男が蒸発し、妻はあわてて彼がどこにいるか探しています」
ウヴァーニはBドクターに属するものはないかとたずねた。ルシャンはまどろんでいるアイリーンにシャツの一片を渡した。アイリーンがそれを手に取ると、ウヴァーニは行方不明の博士について話し始めた。
「家を出る前にドクターはメキシコに行きたいとよく話していました。まずカリフォルニアへ行き、それからメキシコへ行くということです。あらかじめそういうふうに考えていないと、行くことはできないでしょう。彼は落ち込んでいたのかもしれません。2、3年前彼はむつかしい問題をかかえてしまいました。それはお金に関することであり、健康に関することだったでしょう。どれも彼の性格に起因しています。彼は不安を感じていました。彼は自身を探したかったのです。どこかへ行かないとそれはできないと思っていました。彼は事故にあったわけではありません。元気にしています」
ウヴァーニはつぎの降霊会では彼に属するもの、たとえばパイプなどふだん使っているものが必要だと言った。その夜ウヴァーニはBドクター夫人に電話をし、そのような趣旨のことを言った。夫人は封をした箱を送ってきた。アイリーンはあえて箱をあけず、マニラ封筒のなかに置いただけだった。あとでわかったことだが、なかにはドクターの好きなペンが入っていた。
二度目の降霊会は1966年3月28日に財団のオフィスでおこなわれた。こんどはトランスに入らず、ウヴァーニを呼ぶことなくメッセージを受け取った。
「その人は40代なかばに見えます。非凡な人にちがいありません。30代と50代の間ですね。家族には欠員があります。それは父親でしょう」
これは正しかった。ドクターが14最のとき父親は家族のもとを去り、子供たちは25年間再会することはなかったのだ。
アイリーンは彼の背の高さを5フィート10(177・8)と考えたが、実際より1インチ高かった。彼は最近すこしやせたはずだという。実際25ポンドも体重を落としていたのである。セッションの終わるころに彼は言った。
「彼はラジョラにいます」
そして数分後、言い直した。「いまサンディエゴにいます。彼はバスに乗っています。長距離バスです」
そのとき(3月28日午後1時)中西部のBドクター夫人はラジョラで書かれた、だがサンディエゴの消印が押された博士からの手紙を受け取った。手紙には彼の体調がよくないので、まもなく自宅に帰るつもりだと書かれてあった。
博士は長距離バスに乗ってラジョラからメキシコへ行き、それから戻ってきたのだった。帰宅したのは4月8日だった。
ルシャンはこの件についてジャーナル誌上で(1968年1月)論じている。アイリーンはあきらかに超常的な能力によって情報を得ていると彼は考えている。しかしこの方法はすたれたやりかただという。多くの研究者は目下の興味の対象ではないとし、超心理学の潮流からははずれているのだ。現在の超心理学は統計学的価値、催眠術やドラッグの超常的能力の効果、人格構造と得点レベルへの態度の関係、その他のアプローチなどに重きを置いているという。
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