あやしげの海を泳ぐ         宮本神酒男 

イエス・キリストのインド修行伝説


目次・本文へ 

概要
 もし一度だけタイムマシンに乗って好きな時代、好きな場所へトリップできるなら、私は迷うことなく二千年前のイスラエルを選び、世界史上もっとも有名な人物(まあ「神の子」と言ったほうがいいだろう)にして神、イエス・キリストに会ってみたい。何よりもまずその風貌を見てみたい。

 イエスといえば、われわれは映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』(イエス役はテッド・ニーリー。舞台も)や『パッション』の主役を演じた聖者かつヒッピーのような青い目の西欧人を想像する。しかしイエスがユダヤ人であるからには、白人の西欧人よりも、パレスチナ人のほうがずっと近いだろう。言うまでもない話だが、イエスはキリスト教徒ではなく、ユダヤ教徒だった。聖書のなかではラビ、すなわち祭司とさえよばれている。宗教的な雰囲気を漂わせたセファルディム系(中東系)ユダヤ人を想像すればいいのではなかろうか。
 「復元されたイエスの顔とレントゥルスのイエス」 
*『パッション』でイエスを演じたのはジム・カヴィーゼルだ。スロバキアやスイス、アイルランドの血が混じるという。毛髪は濃い栗色、目は青灰色。TVシリーズ『パーソン・オブ・インタレスト』。 

 イエスのことがはじめて記されたのは、同時代を生きたフラウィフス・ヨセフスの著した『ユダヤ古代誌』である。コリン・ウィルソンの考えによれば、そこに描かれるのは「品格のある顔、形のいい鼻、ヘーゼルナッツ色の巻き毛の長身でがっちりとした体格のいい青年」である。しかしパリサイ人祭司階級のヨセフスが異端者のイエスをよく描くはずはなく、学者の多くものちの時代に付加されたのではないかと推測している。書き換える前、イエスは「背の低い禿げ上がったせむし男」として描かれていたはずだとウィルソンは主張する。ジーザス・クライスト・スーパースターのイメージとはほど遠いのである。*ヨセフスの書の記すイエスについては、「イエスは盗賊の首領だった ヨセフスのキリスト証言に関して」参照。 

 一方、イエスは白人だったという一見ばかばかしい説がある。西暦178年頃に書かれたギリシアの哲学者ケルススの『真理の言葉』には(この著作は失われているが、オリゲネスの反駁本から原文を知ることができる)マリアがパンテラというローマ軍兵士と不義なまじわりをかわし、イエスが生まれたと記されているという。パンテラは、当時のローマ人社会ではごく一般的な名前だった。ジェイムス・D・テイバーによると、現在のドイツ領内から1世紀のローマ軍兵士の墓碑銘が見つかったが、それにはパンテラの名が刻まれていた。時代的にはイエスの本当の父親であってもおかしくない。もちろんこういった穿鑿はキリスト教信者にとっては不快以外の何物でもないだろう。*フロリゼル・フォン・ロイター『イエス・キリスト 失われた物語』では真の父親はパンデラ(パンテラ)となっている。モンティ・パイソンの映画「ライフ・オブ・ブライアン」でも(イエスのパロディのブライアンは)ローマ兵士の息子だ。

 外見はともかく、イエスの最大のミステリーは、13歳から29歳までの17年間、どこで何をしていたかということだ。二千年前の伝説的人物がどういう暮らしをしていたのか、わからなくて当然だといえば当然かもしれない。当時、日本列島にどんな人々がいたのか、具体的にわれわれがひとりとして挙げることができないことを思えば、生まれてから12歳までと、磔刑までの3年間のことが知られているだけでも奇跡的なことだといえなくもない。とはいえ、世界史上もっとも大きな影響を与えたイエスの生涯の大半が知られていないのは、不思議なことだった。12歳のとき、イエスは人ごみのなかで行方不明になるが、両親が探すと息子は宮の中で教師の話を聞いたり質問をしたりしていた。そのあと「イエスはますます知恵が加わり、背丈も伸び、そして神と人から愛された」という短文で少年時代のパートを終える。(ルカ2 41〜51)つぎの節は、いきなり17年後に飛んでいるのだ。エピソードのひとつぐらいあってもいいのではないか、と思ってしまう。

 その間、イエスは大工の息子として家業を手伝っていたのだろうか。あるいはユダヤ教異端一派のリーダーとして宗教活動につとめていたのだろうか。新約聖書からはその手がかりすら見出すことがむつかしいのである。空白期間の謎は、さまざまな伝説を生み出した。いわく、イエスは若い頃魔力を身につけるためにエジプトに行った。いわく、イエスは叔父のアリマタヤのヨセフとともに英国のグラストンベリーに行き、ドルイド教を学んだ。イエスがインドへ行ったという説は、こういった数ある伝説のひとつだといえる。

 

 ユダヤ教やキリスト教の起源を最初にインドと関連づけたのは、法廷弁護士であり植民地判事のフランス人、ルイ・ジャコリオ18371890)だった。主著『インドの聖書』(1869)のなかでジャコリオは、偶然ですませるにはあまりに多すぎる聖書の内容とヒンドゥー教とのあいだの共通点をあげている。とくにクリシュナの物語と福音書に描かれるイエスの物語との類似性はあきらかだと彼は考えた。そもそもキリスト(Christ)とクリシュナ(Christna)はそっくりではないかとジャコリオは主張する。もちろんこれは一種のトリックで、クリシュナはKrishnaと綴るべきなのだが。

 イエス・キリスト以前の古代社会において、インドと中東のあいだにはどういった関係があったのだろうか。われわれが想像する以上に人や交易、文化の交流がさかんにおこなわれていたのだろうか。デーヴィド・フローリーによればインド商人は海路を使って中東へ出向き、交易をおこなっていた。現在のバーレーンはインド商人の中東における拠点だった。イエスよりあとになるが、ローマ領現エジプト・アレクサンドリ在住の天文学者・地理学者プトレマイオス(90−180)はインド人から学んでいるし、シリアの作家ルキアノス(120?−180?)も、インド人の巡礼者がシリアを訪ねていることを記している。東西交流はわれわれがイメージする以上にさかんだったのだ。

 もしかするとジャコリオが提示した仮説から、イエスの「インド修行説」が生まれたのかもしれない。「インド修行説」のなかでも決定的で、ずっと後世にまで社会的に大きな反響を及ぼすことになるのは、ユダヤ系ロシア人のジャーナリストで旅行家ニコライ・ノトヴィッチ1858−?)が書いた『イエス・キリストの知られざる生涯』(1894)だった。(プロフェット『イエスの失われた歳月』や林陽『封印のバチカン文書』に所収)

 バルカン半島からペルシア、アフガニスタンを旅したノトヴィッチは、1887年、小チベットと呼ばれたインド・ラダックのヘミス僧院で、古代から伝わる巻物のチベット語訳写本を僧侶に見せてもらった。それはイッサ(イエス)の13歳から29歳までの「失われた17年間」にインドへ行ったことが書かれた文書だったのである。

 ヨーロッパにもどったノトヴィッチは、ローマで法王側近の枢機卿にこの文書の写しを見せたが、出版しないよう警告されたという。最終的にパリで出版にこぎつけると、予想以上の反響があった。しかし同時に彼は批判の矢面に立たされることになる。きわめつけはインド学の泰斗マックス・ミュラー(18231900)からの批判だった。この文書はノトヴィッチ自身が捏造した偽書であるという烙印を押されたのである。ある意味、ミュラーのような絶対的権威に取り上げられたことにより、かえって格付けに役立ち、世に広める結果をもたらした。しかしノトヴィッチは一瞬とはいえある程度の成功を収めたにもかかわらず、このまま世間から消えていってしまう。彼がこのあとどういう人生をすごしたのか、いつ没したのかさえわかっていないのである。

 ヘミス僧院で何が起きたのか、依然として謎だらけである。ノトヴィッチが僧侶から見せてもらった文書の写しの原本はラサの図書館にあるという。それはパーリ語で書かれたものだった。しかしサンスクリット語がデーワナガリ文字で記されることが多いのにたいし、パーリ語専用の文字などないのだ。するともともとどの文字で書かれていたのだろうか。吐蕃の大臣トゥンミ・サンボタがチベット文字を造ったとされるのは7世紀のことであり、またチベットに仏教が伝わったのは6世紀後半で、最初の寺院サムエ寺が建立されたのは8世紀後半のことである。残念ながらノトヴィッチはチベット仏教や歴史に関する知識が欠如していたようだ。

 しかしだからといって、ヘミス僧院のできことが虚構であると決めつけることはできない。なぜなら三十数年後の1922年、ラーマクリシュナの高弟スワミ・アベーダナンダがヘミス僧院を訪れたさい、ノトヴィッチが見たものと同一と思われる文書を目にしているからだ。そうすると、ノトヴィッチがヘミス僧院に滞在し、僧侶からイッサの福音書と称するものを見せてもらったのは事実かもしれない。ただそれが得体のしれない捏造文書であったかもしれないのだが。じつはアベーダナンダはノトヴィッチと同様いかさま師のレッテルを貼られそうになった。そこでもう一度ヘミス僧院を訪ね、再調査することを決心する。しかしそのときには文書そのものが行方不明になったことを聞かされたという。(『カシミールとチベットへの旅』)



 一連の「イッサの知られざる生涯」にまつわる顛末のなかで、助演の役割を担うのは、有名なロシア人神秘主義画家ニコライ・リョーリフ(レーリヒ)だ。彼は1925年にヘミス僧院を訪ね、おなじ文書を見たと思われる。彼は各地に残るイッサ伝説は、ネストリウス派(景教)の痕跡ではないかと考えていたようだ。もしこの文書が後世の作り物であるとしても、それはネストリウス派によるものであり、4世紀や5世紀という古いものの可能性があるということだ。

 現代の識者であるS・アチャリアは、180度発想を換え、このイッサの物語は仏教プロパガンダかもしれないと考えている。つまり「西洋の偉大なる賢者イエスが仏教に感化され、永遠の解脱を達成した釈迦の教えを学んだ」のである。そうだとすれば、作られたのは最近ということになり、この文書がチベット寺院から出てくるのも納得がいくというものだ。
 

 ノトヴィッチのイッサは、インドからイスラエルに戻ったあと、聖書に書かれているように磔刑に処せられる。しかしいくつかの説によれば、磔刑を逃れたイッサはインド・カシミールにやってきて王位につき、115歳という長寿をまっとうしたという。カシミールの都スリナガルにはローザバル廟というイエスの墓もある。ノトヴィッチはカシミールを訪ね、滞在しているというのに、このイエスの墓に関する記述は残さなかった。墓の存在を知らなかったのか、それともあえて知らないふりをしたのか。もし後者だとすると、ギリシア正教に改宗していたノトヴィッチにとって、復活したあとインドへやってくるという説は受け入れがたかったのかもしれない。

 イエスは磔刑による死を免れ、その後イスラエルの失われた十支族をもとめてインドへやってきたと、著書『インドのイエス』(1899)のなかで主張したのは、イスラム教の改革派アフマディーヤを興したインド・パンジャブ地方のミルザ・グラーム・アフマド18351908)だった。いや、イスラムという言葉でひとくくりにすべきではないだろう。アフマドは19世紀のイスラム社会における最大の異端的指導者と目されているのだから。アフマドは、自分自身がムハンマド以降に現れた最後の預言者でメシアであると宣言した。このことによって、ほかのすべてのイスラム教徒を敵に回すことになったのだ。近年インドネシアでは、少数派ながら一定の勢力を持するアフマディーヤ派が主流派から差別を受け、家を焼かれたり、襲撃を受けたりする事件が多発している。主流派からすればアフマディーヤはイスラム教とは認められないのだ。
 アフマディーヤは特異なイスラム教の宗派であり、アフマドはカルト教祖的なイスラム指導者だった。しかし異端とはいえ、イスラム教のなかに「イエスはインドに来た」という説が生まれたのは興味深いことだ。
 

 イスラム教以上にノトヴィッチの影響を受けたのはヒンドゥー教だった。世界的なロングセラー『あるヨギの自叙伝』の著者であり、西欧にヨーガを広めることに寄与したパラマハンサ・ヨガナンダ18931952)はそのひとりだった。ヨガナンダの『イエスのヨーガ』や『キリストの再臨』を読んでいると、それがインドのヨーガ行者によって書かれていることを忘れてしまうほど、それにはキリスト教の真理が述べられているのだった。

 究極的には、ヨガナンダにとってノトヴィッチの「イッサの福音書」が本物であろうと偽書であろうと、どうでもよかったのではなかろうか。イエスが偉大なヨーガ行者であることに変わりはなく、インドでヨーガ師から教わったのであろうと、イスラエルでインド人ヨーガ師から教授を受けたのであろうと、また自らヨーガの技術を会得したのであろうと、最高点に到達したのには違いないからだ。イエスもまたヒマラヤの偉大なシッディ(成就者)たちのように、ヨーガのなかで神との合一を果たしたのである。

 ヨガナンダにクリヤー・ヨーガを伝えたグル(導師)のユクテスワル・ギリ18551936)もまたイエス・キリストの影響を強く受けていた。1894年のマハー・クンブ・メーラのとき、ユクテスワルは会場ではじめてグルとなるラヒリ・マハサヤ(18281895)と会うのだが、そのさいもイエスの重要性について気にかけていた。19世紀後半から20世紀にかけては、このようなキリスト教とヒンドゥー教の精神的習合が大きな潮流となっていた。(サイレーンドラ・ベージョイ・ダスグプタクリヤー・ヨーガ』)

 瞑想によって肉体離脱(脱魂)の境地を発見した元シク教徒のヨーガ行者スンダル・シン18891929)もまた、イエス・キリストの影響を強く受けたひとりである。スンダル・シンは少年時代、死について深く考えた時、幻影のなかにイエス・キリストの姿を見た。彼はイエスの導きによって厳しい修行の世界に入ったのである。(林陽『死後の世界』)

 スンダル・シンもヨガナンダも「キリスト者」であることはまちがいない。たとえ325年のニカイア(ニケーア)公会議によって決まったドグマをかかげる正統派のキリスト教徒からすれば、彼らのキリスト教は異端そのものであったにせよ、彼らなりの信仰心を持っていたのである。

 ところでマハー・プラーナ文献の一つ、『バヴィシュヤ・プラーナ』がこれらのグルにどれだけの影響を与えたか明確ではないが、彼らが目を通していることは間違いないだろう。驚くべきことに、このインドの古代文書には修行者イエスが処女から生まれた神の子、イシャ・マシハ(救済者イエス)として登場するのだ。

 「インドにおけるイエス・キリストの研究」とでも呼ぶべきジャンルがある。そういったテーマの著作を発表してきたのはアカデミズムの学者というよりアマチュアの研究者や作家たちだった。その源泉となったのはノトヴィッチの『知られざるイエスの生涯』だったが、人々の想像力をいっそうかきたてることになったのは、米国の伝道師リーバイ・ダウリングの著した『宝瓶宮福音書』だった。イエスがインドはもちろんのこと、チベットやペルシア、バビロニア、ギリシア、エジプトなどをめぐる魂の遍歴の物語である。リーバイはこの物語を創作したのではなく、アカシック・レコード(アカシャ年代記)から写し取ったものだという。その意味では偽書ではなく、真実の福音書なのである。

 ノトヴィッチの『知られざるイエスの生涯』とその後ラダックのヘミス僧院を訪ねた人々の記録をまとめたのは終末カルトの教祖でもあったエリザベス・クレア・プロフェットだった。彼女の著作『イエスの失われた歳月』(邦題「イエスの失われた十七年」)はこの分野の入門書のような作品だ。後述の小説『カルマ・キラー』にはプロフェットの本を持った西洋人旅行者がたくさんヘミス僧院にやってきてはイッサのことを尋ね、僧院内をかぎまわるというシーンがある。この本はニューエージ世代のバイブルとなったのかもしれない。

 そしてエポックメーキング的な作品となったのは、ホルガー・ケルステンの『インドに生きたイエス』(邦題「イエスの復活と東方への旅」)だった。ケルステンはさまざまな角度から豊富な資料をもとにインドのイエス伝説を検証した。

しかしじつは先駆者がいた。ケルステン自身がこの本の冒頭で述べているように、地元カシミールの大学にはこの分野の専門家、フィダ・ハスナイン教授がいたのだ。出版はケルステンよりもあとになったが、ハスナイン教授も『第五福音書』という本を執筆した。両者の本が似通うのは当然のことだが、もしパテントがあるなら、その所有権はハスナイン教授がもつべきだろう。

 しかし両者とも学術的著作としては説得力に欠ける部分があるだろう。たとえばイエスがインドに来た有力な証拠としてバヴィシャ・プラーナが挙げられているが、これは書き換えや書き加えがおこなわれてきた問題の多い「古典」なのである。問題はそのことについて何ら断り書きがされていないことだ。

 イエスが磔刑を免れたかもしれないと最初に唱えたのは上述のミルザ・グラーム・アフマドだが、それについてさらに推し進めたのはイシュマエル・サラフッディンの『救世主を救う』だった。著者のサラフッディンはアフマディーヤ派(創始者はミルザ・グラーム・アフマド)に属する。彼の主張するところによれば、イエスは「磔刑後」失われたユダヤの十氏族をもとめてアジアを横断し、インドで結婚し、子供に恵まれ、120歳の長寿をまっとうした。その墓はカシミールのローザバルだった。

 「磔刑後生存説」を唱えるのは、ミルザ・グラーム・アフマド、イシュマエル・サラフッディン以外にもいた。『地上の天国に御座すイエス』のホジャ・ナジル・アフマドである。じつは彼もアフマディーヤ派に属していた。そうするとカシミールにある「イエスの墓」ローザバルもまた、アフマディーヤと関係があるのだろうか。

 より最近のスザンヌ・オルソンの『カシミールのイエス』となるとトンデモ度が増している。たとえばアブラハム(Abraham)とサラ(Sarah)はブラフマー(Brahma)とサラスワティ(Sarasvati)に対応し、マグダラのマリアのマグダラ(Magdala)はじつはマガダ国(Magad)であるとか……。こうなると学問的仮説というより名前遊びとでもいいたくなってしまう。とはいえ、このジャンルは学問ではなく、いわば歴史ミステリー遊びと割り切れば、これらの本を読むのも時間つぶしとも言い切れないだろう。オルセンがつぎつぎと出してくる「証拠」について、あれこれと批判しながら、彼女といっしょに考えていこうではないか。

 インドのイエス伝説は数多くの作家に刺激を与え、フィクションを生み出してきた。インド人作家アシュウィン・サンギの『ローザバル・ライン』はおそらくスザンヌ・オルセンの素材をもとにして書き上げた「ダ・ヴィンチ・コード」風のサスペンスだ。インドでは大ベストセラーになったと聞くが、作品は作家志望の学生が書いた習作のような稚拙さも見える。そもそも重要な登場人物である日本人女性(なぜかオーム真理教と関連している)がスワキルキ(Swakilki)という奇妙な、ありえない名前をもっている。それだけで作品に入っていけなくなってしまった。この名前が謎解きの重要な要素となるので、改訂のときに日本人らしい名前に修正することもできないだろう。

 とはいえこの小説の意外にして壮大なるエンディングは、読み進んだ甲斐があったと読者に感じさせるものがある。ストーリー展開に無理はあるものの……。

 昨年出版されたジェフリー・スモールの『神の息』は、やはり「ダ・ヴィンチ・コード」風のサスペンス小説で、作者の力量を感じさせる作品だ。主人公はノトヴィッチがラダックのヘミス僧院で見せてもらったイエスの文書を、たまたまブータンの僧院で見つける。それは世界に衝撃を与える発見のはずだった。しかしそのことを知ったキリスト教の原理主義者に主人公は狙われ、まわりの人間もつぎつぎと殺されていく。

 イタリア人作家アンジェロ・パラティコの『カルマ・キラー』はフィクションならではの奔放な想像力を駆使した小説だ。主人公ジャコモはイタリア人スリーパー(一般人になりすました諜報部員)。その彼に秘密の指令が下り、チベット高原の奥地に行くと、そこにあったのはシャングリラだった。イッサはチベットに来て理想郷シャングリラを建てたのだ。小説『失われた地平線』のシャングリラはフィクションではなく、実在したのだ。イッサはそこではトンパ・シェンラブ(ボン教の教祖)と呼ばれた。ジャコモの果たすべき役割は「邪悪な国」北朝鮮の世界破壊計画を阻止することだった……。

 エドガー・ケイシーに触発されて書いたというスタニスワフ・カプシチンスキの『イェシュア』は、自分自身をイエスの影に投じた魂の遍歴の物語だ。語り手はインドからエルサレムにやってきた少年サティヤ。12歳のイェシュア(イエス)はサティヤの父親の隊商に加わって、およそ18年の間、西はメンフィス(エジプト)から北はパルミラ(シリア)、そして東はベナレス(インド)まで長い旅をつづける。このポーランド出身の芸術家でもある亡命作家のつむぎだす作品は美しく、どこか悲しい。しかし同時にこのイェシュアは生命賛歌を歌っているようにも思えるのだ。イェシュアは花々を、砂丘の稜線を、そして夜空を指しながら神から与えられた豊かさを説くのだった。

 クリストファー・ムーアの『子羊』は、シニカルでユーモア精神にあふれた、というよりハチャメチャなベストセラー小説だ。おなじ著者による『アルアル島の大事件』(創元推理文庫)の「訳者あとがき」にならえば、バカミス(おバカなミステリ)とでもいうほかないジャンルに属する。なので大上段に振りかざして学説と結びつけても仕方ないだろう。語り手は、ジョシュア(イエス)の幼なじみ、ビフ。死体を蘇らせ、病気を治す特技を持つ少年ジョシュアは、自分はメシアになるべき人物と信じて疑わないが、どうしたらメシアになれるかわからない。彼は美少女マギー(マグダラのマリア)を置いて、ビフとともに隊商に加わり(ビフの仕事は便秘がちなラクダのお通じ係)シルクロードをたどって東方への旅に出る。ジョシュアは中国の寺でカンフーを学び、インドでは「カーマ・スートラ」に没頭する。この小説は聖書のパロディである。つまりイエスに関する伝説のパロディでもある。空白の17年の謎は、パロディ化されるほどなじみ深いモティーフだといえるだろう。

 「イエスの失われた歳月」はこのように作家や研究者の好奇心を刺激し、さまざまな傑作の源泉となってきた。新約聖書の四つの福音書のどれも13歳から30歳までのイエスについて触れるのを避けているように見えるのはなぜだろうか。たとえばこう仮定してみよう。青年イエスはエッセネ派の共同体のなかで暮らしていた。イエスの磔刑のあと、使徒たちは何らかの事情でエッセネ派を否定するようになり、この時期の活動を削除したのではないか。あるいはエジプトやペルシア、インドへ行って宗教を学んだのではないか。この仮説を取るに足らない空想のたまものと言えるだろうか。
イエス誕生時にやってきた東方の三博士(マーゴイ、つまりマギ)はその名から、まるでゾロアスター教徒のように思える。ペルシアやインドとイスラエルのあいだには古くから交流があったのではなかろうか。それにまたマホメットが考えたようにイエスは磔刑による死を逃れたのではなかろうか。そうするとイスラエルの失われた十氏族をもとめてインド・カシミールをめざしたという論は荒唐無稽とも言えなくなってくる。東西交流がわれわれが想像するよりはるかにさかんだったとすると、文化や宗教の共通点がたくさん見出せるのは当然だといえよう。もしかするとイエス自身が交易商人といっしょにインド方面へ行ったかもしれないのだ。

 

⇒ 目次 

⇒ つぎ