イエスは盗賊団の首領だった? 宮本神酒男 

ヨセフスのキリスト証言に関して 

 フラウィウス・ヨセフス(37?−100?)はイエスと同時代に生きただけでなく、ユダヤ人の戦争や興亡にみずから参加し、当事者の観点から記録を残したという類まれなる歴史著述家だ。今に伝わる著作は、『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代誌』『アピオーンへの反論』『自伝』と、短い論考の『ハデス(冥界)論』である。ヨセフスはユダヤ戦争のとき、ガリラヤでローマ軍と戦ったが、投降し、のちにローマ軍の幕僚としてエルサレム攻撃に参加する。いわば敵側に寝返った裏切り者なのである。著作を読めば一目瞭然なのだが、ローマ帝国からすれば最高のインフォーマントであった。ローマ帝国からだけでなく、キリスト教徒にとって、さらにはわれわれにとってもこのうえない情報提供者だといえるだろう。

 とくに重要なのが、『ユダヤ古代誌』のなかの「ヨセフスのキリスト証言(Testimonium Flavianum)」といわれる箇所である。イエス・キリストに関する同時代の記述がほとんど残っていないなか、唯一、同時代の著者(ヨセフスはイエスより40歳くらい年下)に書かれたイエスの記録なのだ。

 しかしその前に、「イエス」について留意しておきたい点がある。それはヨセフスの著作には、おびただしい数の「イエス」が現れることだ。

 たとえば『ユダヤ戦記』には、大祭司のひとりであるサッピアスの息子イエスが登場する。さらにもうひとりの(あるいは同一人物?)サッピアスの息子イエス(手元の資料だとシャファトの息子イエス)は、なんと有名な盗賊団の首領なのである。このあたりは記述が混乱していて、複数のイエスがいるのかもしれないが、もしも大祭司で、(ガリラヤ南部の)ティベリアスの支配者で、盗賊団を率いるイエスが、われらのイエス・キリストだったら、なんと面白いことだろう。盗賊団といっても義侠である。「だれでも、まず強い人を縛り上げなければ、その人の家に押し入って家財を奪いとることはできない」(マルコ3-1)や「誰も強い人の家に押し入って、彼の両手を縛り上げなければ、家を強奪することはできない」(外典『トマス福音書』)など強盗指南のようなイエスの言葉の一節がある……。もちろんこれは比喩にすぎないのだが。

 このほかガマラスの息子イエス、ダムネウスの息子イエス、ガマリエルの息子イエスといった名前が見える。『伝記』や『ユダヤ古代誌』にも同様にイエスの名が頻出する。現在、ポール(パウロ)やジョン(ヨハネ)といった名前はありふれているが、子にジーザス(イエス)と名付けることは、クリスチャンネームという観点からすればほぼありえない。イエスに相当する一般的な名、ジョシュア(ヨシュア)ならありえるが。ヒスパニック系なら、デヘスース(deJesus)という苗字は珍しくない。いずれにしろ当時のイスラエルでは、イエス(ヨシュア、イェシュア)という名はありふれた名前だった。
 近年、イェシュア・バル・ヨセフ(ヨセフの息子イエス)と彫られた骨棺がエルサレムで見つかったとき、研究者たちは一瞬興奮の渦に包まれた。しかしイェシュアもヨセフも当時はありきたりの名前であり、それをイエスの墓と断定することはできなかった。(ヤコボビッチ、ペルグリーノ『キリストの棺』)

 『ユダヤ古代誌』などにたくさん出てくるイエスのなかでも、18巻3章3節のイエスはまったく異なっていた。あきらかにイエス・キリストのことなのだ。

 さてこの頃、賢き人イエス(彼を法的に人と呼べればの話だが)という者がいた。と言うのも、彼は驚嘆すべきわざ(奇跡)を行う者であり、真実を喜んで受け入れる者たちの教師だったからだ。彼は多くのユダヤ人や異邦人(とくにギリシア人)を惹きつけた。彼はキリストだった。そしてわれわれの指導者の要望にこたえてピラトが彼を十字架にかけたときも、最初から彼を愛していた者たちは、彼を見捨てたりはしなかった。(処刑後)三日目には、彼らの前に生きたままで姿を現した。これは神聖なる預言者たちが言ったとおりであり、預言どおり一万もの奇跡が起こった。彼を慕う者たちは彼にちなんでキリスト教徒一族と名乗り、いまも多くの信者がいるのだ。  

 このイエスの存在を裏付ける決定的な証拠は不動のものと思われたが、16世紀頃にはすでに疑惑を表明する人々があらわれていた。ユダヤ教徒であるヨセフスがイエスやキリスト教を礼賛するのはおかしい、というわけだ。こうしてこの部分は、キリスト教徒によって後代付加されたものとみなされるようになった。おそらく付加説は、まちがいないだろう。

 しかしほぼ定説の付加説に、異議を唱える者もいる。マリアン・ヒラーは、これが付加されたものであるなら、イエスの兄弟ヤコブの箇所も付加されたものとしなければ、辻褄があわなくなるというのだ。

 『ユダヤ古代誌』20巻9章1節に、ヤコブのことが記されている。これはAD62年に起きたことと断定されるとヒラーは述べている。

 (裁判官のフェストゥスが死去し、後任のアルビヌスもまだ到着していなかったので)横柄で横暴な小アナヌスは、裁判は威厳を示す絶好の機会ととらえ、サンヘドリン(最高議会)を招集した。議員の前に、キリストと呼ばれるイエスの兄弟であるヤコブと数人の仲間たちを引き出した。小アナヌスは彼らを、法を破る者として弾劾し、石投げの刑に処した。しかし彼らは法を犯していない市民としか思えなかったので、最高議員のなかには気分を害する者もいた。彼らはアグリッパ王に使者を送り、小アナヌスにこれらの正義にもとることをやめさせようと画策した。 

 イエス・キリストだけでなく、イエスの兄弟ヤコブもまた実在したという証拠になるはずなのに、キリスト教徒はこの箇所を無視してきた。聖書には(マタイ13−55)イエスに兄弟(ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ)や姉妹(具体的な名前はなし)がいたと書かれているのに(とくにカトリックが)彼らはいとこであるとか、さまざまな理由をつけて本文そのものを認めてこなかったのである。この一節は、キリスト教徒が後世付加したとは思えない。そうだとすると、イエス・キリストについて書かれた一節も、まるごと挿入したというよりも、もともとの記事に加筆されたものととらえるべきかもしれない。

⇒ 「イエスに関する古代の3人の記述」  


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