イエスに関する古代の3人の記述      宮本神酒男 

 近著『イエスは存在したのか』(2012)の中で、聖書学者バート・D・アーマンはイエスやキリスト教についてもっとも早く言及した3人(小プリニウス、スエトニウス、タキトゥス)を取り上げている。

 小プリニウス(61112)は、『博物誌』で有名な大プリニウスの甥にあたり、養子でもあったローマの軍人かつ文人で、博物学者である。その皇帝に宛てた書簡集のなかにキリスト教のことが記されている。

 それによると、非合法の集団であったキリスト教徒のグループは早朝を好み、集会を開いていた。メンバーはさまざまな職種や階層の者によって構成されていたが、おなじ食事をともに食べたという。当時、彼らはカニバリズム(人肉食)を実践しているという噂が流れていた。つまり神の子の肉を食らい、血を飲んでいたというのである。またキリストを神として崇め、賛歌を歌ってささげるという点も書簡のなかでは強調された。

 このようなことは、キリスト教になじみのある現在のわれわれからすれば特別なものではないけれど、当時においては危険なカルト集団に映ったのである。カニバリズムは象徴的な儀式が誤解されたことによる風説にすぎなかったが、わけのわからない集団というイメージが広まっていたのだろう。加えて、社会的身分を否定し(神の前においてはみな平等である)、国が公認するローマの神々のかわりにキリストという人物を神として信奉するというのだから、社会秩序を乱す危険な宗教団体とみなされるのはもっともなことだった。

 小プリニウスは「キリスト教徒の迷信によるけがれ」という表現を用いて、批判的にキリスト教信仰の広がりを記している。けがれは町だけでなく、村々、あるいは僻地にまで浸透していた。ローマ帝国内で国教として認められるにはまだ時間を要したが、その下地はできつつあったのだ。

 歴史家スエトニウス(70?−140?)の記述もまた、当時のローマにおけるキリスト教の広がりをよく表している。スエトニウスによると、クレストスという人物に扇動されてユダヤ人の暴動が勃発した。クレストスという名からわれわれはキリスト(ギリシア語でクリストス)を連想せずにはいられない。もちろん暴動の首謀者の名がクレストスであったというだけのことかもしれないが。詳しくは「西暦45年のキリスト」の節で述べたい。

 『ゲルマーニア』や『年代記』などの著作で知られる歴史家タキトゥス(55?−120?)は小プリニウスやスエトニウスよりもイエスのことを知っていて、興味を抱いていたように思われる。タキトゥスは、イエスが「キリストと呼ばれ、ポンティウス・ピラトの命令によって処刑された。それはティベリウス帝の時代のことだった」ということを少なくとも知っていた。キリスト神話説論者は、これらの記述が後世の挿入ではないかと考えているが、「それはありそうにもない」とバート・D・アーマンは否定している。

 「その証拠に」とアーマンがあげるのは、タキトゥスがピラトのことをProcurator(税収吏)と呼んでいる点だ。1961年にカエッサリアで発見された石碑にはピラトが総督であると記されていたが、それはピラトの階級がProcuratorではなく、Prefect(軍事的な長官)であることを示している。「これはタキトゥスが公文書を参考にしたのではなく、伝聞にもとづいて書いたことを意味する」とアーマンは結論づけている。


⇒ 「イエスは盗賊団の首領だった」 

⇒ 「西暦45年のキリスト」 

⇒ 「ノトヴィッチとイッサ文書の謎」 

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