10ルピーの教え (『スンダル・シン 山を越えた足跡』より)
訳:宮本神酒男
ある日スンダルの父は息子に1ルピーを渡し、市場で好きなものを買いなさいと言った。スンダルはお金を受け取ると、市場へ向かって駆けながら、どのお菓子を買おうかと思案をめぐらした。市場の入り口に着いたとき、スンダルは骨と皮だけのやせこけた乞食の女を見かけた。髪を頭上にまとめ、くぼみのなかの目はどろんとしていた。彼女は抑制がきかないのか、ぶるぶると震えていた。スンダルは乞食女からどうしても目をそらすことができなかった。突然彼は、いつどこでも善行ができればしようと決意したことを思い出した。ここに絶望的なほど助けを必要としている女がいて、彼は彼女を助けることができるのだ。彼は手をズボンのポケットに入れ、父にもらった1ルピーを出した。お菓子がなくても、かまわない。
「ほら、これを受け取って」とスンダルは1ルピー・コインを渡しながら言った。
女はくぼんだ目に涙を浮かべながら、礼を言った。
スンダルは親切な行為をしたことによって満足感がからだのなかを流れるのを感じた。しかしもっと何かができるのではなかろうか。そう、できるはずだ、と彼は考えた。スンダルは走って家にもどった。
「お父さん、お父さん!」と叫びながら彼は門から中に入っていった。父は卓に坐って帳簿をつけていた。
「お父さん、どうしても10ルピーが必要なんだ」と息せき切って、たのみこんだ。「市場に乞食の女がいるんだ。女は病気がひどくて、助けてあげなきゃ、かわいそうだ。さっきお金をあげたんだけど、全然たらないと思う。10ルピーあれば食べ物や毛布を買ってあげられるんだけど」
父シェル・シンはペンを置き、息子の顔をじっと見つめた。
「スンダルよ、おまえに10ルピーをあげることはできない。そもそも、それは結構な大金だ。もし10ルピーをその女に恵んだら、ランプル中の、いや近隣を含めたすべての地域の乞食が施しを期待して集まってくるだろう。いや、そんなことはすべきじゃない。おまえがすべきことはもうやったじゃないか。いまはほかのだれかが女にお金を恵んでいるだろうよ」
「でも」とスンダルは口を開きかけた。
父は手をあげて制した。
「十分だ、スンダル。もう話すことはない」
父はまたペンを取り、帳簿をつけはじめた。スンダルは部屋を出て行った。そのとき彼は、部屋の棚にお金が入ったバッグが置いてあるのを見た。はじめ彼はそのことを考えまいとしたが、次第にその考えにとりつかれ、それを振り払うことができなくなった。ダメだ、と彼は自分に言い聞かせた。父親のお金をくすねるなんてことは、絶対にやってはだめだ。しかし乞食女の姿がありありとよみがえってきた。女は助けを必要としているのだ。スンダルはバッグからそっと10ルピー札を抜き取った。父はお金がなくなっていることに気づかないだろう、と彼は確信した。
スンダルは市場まで走ってもどった。弱々しい乞食女の姿を見たとき、息もきれぎれだった。彼は立ち止り、何をすべきか考えた。突然何が何だかわからなくなった。父からお金を盗んだんだぞ。ひとつの悪事が、乞食女に施しをするという善行を台無しにするのではないのか。悪に染まったら、神様に近づくどころか、ますます遠くなってしまうんじゃないのか。どうしようもないほど女を助けてあげたかったけど、スンダルは踵を返し、蛇行しながら家路をたどった。お金を抜き取ってから半時間もたっていなかった。このまま10ルピー札をバッグにもどせば、なくなっていたことに誰も気づかないだろう。
家の門を通り、中庭に入って、彼は面食らった。父がいきり立って、ドシンドシンと地面を踏みながら行ったり来たりしていたのだ。
「ああ、おまえか、スンダル。じつはわしのカバンからお金がなくなっていたのだ。ちょうど10ルピーだ。何か知っているか?」
スンダルは「はい、知っています」と言って10ルピー札を渡したかったが、できなかった。父の目に浮かんだ怒りがあまりにすさまじく、どんな懲罰を受けることになるのか、考えただけでも恐ろしかったのだ。スンダルは自分でも思いもよらないことをしゃべっていた。
「いいえ、お父さん。何も知りません」
「そうか、それなら下僕だな」と意を決したように父は言った。「徹底的に究明するぞ。家の中に泥棒がいるなんて耐えきれんからな」
スンダルは事態を飲み込めないまま、中庭から出て行った。彼は村の外の森でひとりきりになった。いったい自分は何てことをしたんだろうか。ただ市場の乞食女を助けてあげたかっただけなのに、いまの自分はうそつきで泥棒なのだ。
スンダルが家に戻ろうとする頃、日は沈みかけていた。家に着くと、父はお金を盗んだとして下僕たちを殴っていた。母が説明するには、だれも罪を認めなかったので、父は全員を罰するしかなかったという。スンダルはおのれの犯した罪がもたらした結果に暗澹たる思いを持った。
その夜、スンダルは食べることも眠ることもできなかった。彼は就寝マットをひっくり返したり投げたりしながら、罪の意識にさいなまれた。いったいどうやって父の目を見ることができるだろうか。もし自分のかわりに罰を受けたことを知ったら、下僕たちはどう感じるだろうか。スンダルはもはや耐えきれなかった。真夜中だったけれど、ねじまげたままにしておくわけにはいかなかった。彼は立ち上がり、父の部屋へ向かった。
スンダルは震えながら父を起こした。息子が10ルピー札を渡し、罪の告白をしたとき、父はただ驚いて何も言えなかった。
話し終えたあと、スンダルは父に殴られると思い、緊張して立っていた。ところが驚いたことに、父は息子に鞭を取るように命令するかわりに、抱きかかえるように腕を回した。
「スンダル、わしはいつでもおまえのことを信じているよ。おまえの告白を聞いて、わしはそのことに確信をもった。さあ、寝床にもどりなさい。あすの朝、ゆっくり話そうじゃないか」
翌朝スンダルが起きて父の部屋に行くと、父はお金の入ったバッグをもったまま待っていた。父は10ルピー札を取り出し、スンダルに渡した。
「これを持っていきなさい。そして女に食べ物と毛布を買ってあげなさい」
それから父は1ルピー硬貨を渡し、「これでおまえ自身のためにお菓子でも買いなさい」と付け加えた。
「ありがとうございます、お父さん」とスンダルは父の気持ちをかろうじて理解しながら言った。彼は急いで着替え、市場へ向かった。
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