ユクテシュワルの前半生 

 プリヤ・ナート(のちのユクテシュワル)はクンブメーラ祭のとき突然キリスト教にめざめたわけではなかった。伝説化されすぎたためなのか、伝記においてその部分が削られている場合が多いが、ミッション系の大学(カレッジ)で教育を受けている。キリスト教に深く触れる環境下にあったのだ。

 プリヤ・ナートは1855年、コルカタの北郊セラムポールの中流家庭に生まれた。父は小さな土地の地主で、ビジネスも手掛けていたという。彼は小さい頃から学業はきわめて優秀だった。しかし彼がまだ子供のときに父は死亡し、そのあとを継ごうとしたが、ビジネスにはあまり興味がなく、うまくいかなかったという。

 彼はスリランプル・キリスト教ミッション大学に入学した。在学中に彼は聖書やイエスの生涯に強く惹かれたという。キリスト教の内面性とヨーガの神秘との関連についてとくに興味を持ったのはこの時期だった。

 彼は学問そのもの、とくに科学に心を奪われていた。医学と同様、解剖学や生理学に興味があった。ある科学の授業のとき、それが主題ではなかったが、教授に解剖学や生理学について詳しく質問をした。すると苛立った教授はこたえた。

「まず医科大学に行きなさい。それから私のクラスに来なさい」

 教授は嫌味のつもりで言ったのだろうが、プリヤ・ナートにとってはそれが幸いした。彼はこの大学をやめ、本当にカルカッタ医科大学に入学したのである。彼は科学と解剖学、生理学について十分学んだと考え、三回生に進む前に退学した。しかしもとの大学にもどることはなかった。

 プリヤ・ナートは結婚し、会計士の仕事を得た。この仕事は彼にとっては簡単すぎ、給料はよかったが、次第に不満がたまっていった。

 しばらくして彼は仕事をやめ、有名なドイツ人の自然療法家コン博士の実験室を紹介された。プリヤ・ナートはもともとホメオパシー療法に興味を持っていたのだ。コン博士は自然薬品がすべての病に効くと信じていた。肉や魚は不自然で、有害でさえあると考えていた。ときにはそれらが必要な場合もあるのだが。この時期に開発した自然薬品はのち、病人を助けるときにおおいに役立つことになる。

 彼は肉体を使う文化にも興味を持っていた。乗馬やハンティング、武器を使うスポーツ(フェンシングなどだろうか)などが好みだったという。音楽の分野でも玄人はだしで、シタールの名手だった。このように若い時分は「聖者」のイメージとはかけ離れた生活を送っていた。

 それが一変したのは、わずかの間に、まず妻に先立たれ、それから闘病生活の末、結婚したばかりのひとり娘が病死してからだった。血縁のある者で残ったのは孫娘ひとりだった。プリヤ・ナートは嘆息してこう述べたという。

「サンニヤシ(出家者)を作り出すのは、神にとっては何と簡単なことだろう」

 

 少年期からプリヤ・ナートはゴースワミ家やその他の富裕な貴族の屋敷に出入りしていた。1884年頃、それらの家族に有名な行者の影響力が強まっていた。閉じられた扉の向こう側ではサーダナ(修練)が行われているようだった。ヨーガを実践しているのはヴァラナシのヨーガ行者の弟子たちであることが彼にはわかってきた。この行者はだれなのか? 彼はついにそれがラヒリ・マハシャイであることを知り、ヴァラナシまで行ってその家をつきとめた。そしてついにラヒリ・マハシャイ自身からクリヤー・ヨーガのイニシエーションを受けることができた。

 



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