『聖なる科学』からの抜粋
冒頭でユクテシュワルはつぎのように記している。
この本の目的は、すべての宗教の本質は同一である、ということをできるだけ明瞭に示すことである。
彼はベンガルの中流家庭に生まれた者として、ごく普通に『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』『プラーナ』などを普段から読んでいた。パンディト(博学なヒンドゥー学者)の講義に参加する機会も多く、とくに『プラーナ』のテーマにはなじみ深かった。ヴィシュヌ派の著作、『シュリ・チャイタニヤチャリタムリタ』に通じていた。このようなバックボーンを持ちながら、彼はミッション大学で聖書と出会い、そのすばらしさに心を奪われてしまったのだ。とくに「ヨハネ福音書」と「ヨハネの黙示録」は繰り返し読んだようである。そしてクリヤー・ヨーガを学び、すべての宗教の本質は同一なる真実ではないかという確信を持つにいたった。以下は『聖なる科学』からの抜粋だが、たんなる宗教比較論ではなく、その理解と認識は叡智と哲学の深部にまで達しているように思われる。
この本は「福音書」「到達点」「過程」「啓示」の4部構成となっている。
第一部「福音書」
<スートラ1>
パラムブラフマ(精霊、あるいは神)は完璧で、永続的で、はじめもなければ終わりもない。それは分かちがたい一(いつ)の存在である。
なぜ神を理解することはできないのか
人は永遠の信仰を持ち、直感的に本質の存在を信じる。聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚という感覚の客体は、しかし特性にすぎないのだ。人は物質的肉体によって自己を認識する。それは上述の感覚という特性によって成り立っているのだが。人はこれら不完全な器官によって特性を理解するのであって、特性が属する本質を理解しているのではない。
永遠なる父、神、宇宙の唯一の本質は、それゆえ、人が自己を暗闇あるいはマーヤーの上に昇華させ、神聖なる存在にならないかぎり、物質世界に属する人には理解することができないのだ。
さて、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル人への手紙11−1)
そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること(……)がわかってくるだろう。(ヨハネ福音書8−28)
<スートラ3>
パラムブラフマから創造が生まれる。そして活性化していない物質原理(プラクリティ)が現れる。そしてオーム(プラナワすなわち聖音、言葉、全能の力の顕現)から時(カーラ)、宇宙(デーサ)、原子(創造の振動構造)が現れる。
言葉、アーメン(オーム)は創造の始まりである。
全能者の力の現れ(反発力、補足的な表現、全知感覚あるいは愛、引力)は特別な音を伴った波動である。すなわち言葉、アーメン、オーム。違った角度から見ると、オームは変化の概念、つまり不変のなかにおけるカーラつまり時間を代表する。
アーメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかた。(ヨハネの黙示録3−14)
初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。(……)すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(……)そして言葉は肉体となり、わたしたちのうえに宿った。(ヨハネの福音書1−1、3、14)
<スートラ17>
必要とされるものはグル、すなわち救済者。それはわれわれをバクティ(神への献身的愛)と真実の認識に目覚めさせる者である。
人がサット・グル、あるいは救済者を見つけるとき。
パロークシャジュナーナ(正確な推論)によって外的世界が無であることを理解したとき、人は洗礼者ヨハネの役割を理解する。この聖なる人物は、光を目撃し、キリストのためのあかしをした。キリストの心の愛、それは天からの贈り物なのだが、より高みへと達するものだった。
進歩した真面目な探求者には、運よく神のような仲間がいるかもしれない。彼のために立ちはだかる仲間はサット・グル、すなわち霊的な教師であり、救済者である。この聖なる人物の言葉にしたがって、人はすべての感覚器官を内なる中央部、すなわち感覚中枢、トリクティまたはスシュムナドワラへと向けることができるようになる。それは内的世界への扉である。彼はそこでノックのような音の「声」、宇宙振動の言葉、アーメン、オームを聞く。そして神が遣わしたラーダーの輝く身体を見る。それは聖書においては先駆者、あるいは洗礼者ヨハネを象徴する。
見よ、わたしは戸の外に立って、叩いている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはそのなかにはいって彼と食をともにし、彼もまたわたしと食をともにするだろう。(ヨハネの黙示録3−20)
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネといった。(……)彼は光ではなく、ただ、光についてのあかしをするために来たのである。(……)わたしは、主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声である。(ヨハネ福音書1−6、8、23)
第二の誕生
光り輝く身体を通して、真の光、すなわち宇宙のいのちの存在を信じながら、洗礼を受ける、あるいは聖なる音の流れに身を浸す。洗礼というのは人の第二の誕生であり、バクティ・ヨーガと呼ばれるものである。それなしには人は真の内なる世界、神の国を理解することはできない。
すべての人を照らすまことのひかりがあって、世に来ようとしていた。
よくよくあなたにいっておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることができない。(ヨハネ福音書1−9、3−3)
第二部「到達点」
<スートラ22>
その本性が満たされたとき、人はたんに聖なる光の反射板であるのではなく、能動的に霊と一体化するのである。この状態をカイヴァリヤ、一(いつ)なるものという。
人はどのように救済を見つけるのか。
この状態にあるとき、すべて必要なものは得られ、究極の目的が成し遂げられると、心は完全に浄化され、霊の光を反射するだけでなく、能動的におなじものを発することだろう。人は、このように聖化され、聖霊に聖別されることによってキリスト、つまり聖別された救済者となる。霊の光の王国に入ることによって、彼は神の息子となる。
この状態において人は宇宙の聖霊の断片である自己を理解し、分離した存在であるという無益な考えを捨て、永遠の霊と合一化する。すなわち一(いつ)となり、父なる神と同一になる。この自己と神との合一がカイヴァリヤである。それはすべての創造されたものの究極のすがたである。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。(ヨハネ福音書14−11)
第三部「過程」
<スートラ7、8>
精進(ヴィーリヤ)は信仰(シュラッダー)から生まれるもの。グルに愛を捧げ、グルの教えに心から従いながら。
われわれの悩みを除き、疑いを取り払い、平安をもたらす者たちは、真の教師である。彼らは神のような業(わざ)を成し遂げる。相対する位置に立つ者たち、すなわち疑いや困難を増幅する者たちは、有害であり、毒のようにわれわれはそれを避けなければならない。
創造は実質的に、唯一の真の本質、神、永遠の父、すなわち宇宙の至高的グルの上での思考の遊びにすぎない。創造のすべては、それゆえ、本質の遊びの多様な面において、グル、至上の父、すなわち神にほかならない。
あなたがたの律法に、「わたしは言う、あなたがたは神々である」と書いてあるではないか。(ヨハネ福音書10−34)
わたしは言う、あなたがたは神だ、あなたがたはみないと高き者の子だ。(詩編82−6)
第四部「啓示」
<スートラ9>
彼は霊のあらわれを認識し、7人のリシを見ながら7つのパタラ・ローカスを通過する。
洗礼において(バクティ・ヨーガ、あるいはスラット・サブダ・ヨーガ。聖なる音における自我の没入)人は懺悔し、ブローカ、すなわち粗雑な物質の外的世界から身を引き、ブヴァルローカ、すなわち繊細な物質の内的世界に入る。
そこにおいて彼は7つの金の燭台にたとえられる7つの核、あるいは微細に輝く場所のような霊のあらわれ、あるいは真の光を認識する。
これらの星々は真の光、霊のあらわれであり、天使やリシと呼ばれる。それらは人の子の右手につぎつぎと現れる。つまり聖性への正しい道である。
わたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。その間に人の子のような者がいた。(……)その右手に星をもち(……)(ヨハネの黙示録1−12)
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