世界に花咲くメディテーション・センター 

 少し時計の針を戻して、1915年。学士の単位を取ったヨガナンダは約束通り、セラムポールの師ユクテシュワルのアシュラムに滞在することが許された。その2年後の1917年、ダモーダル川沿いの美しい村ディヒカのマハラジャに属する土地の家屋が寄贈され、ブラフマチャリヤ・ヴィディヤラヤという寄宿学校(アシュラム学校)に改造された。これがヨゴダ・サットサンガ・ソサエティの前身である。ヨゴダ・サットサンガ・ソサエティは海外ではセルフ・リアリゼーション・フェローシップ(SRF)と呼ばれ、現在世界に500ものメディテーション・センターをもつ巨大な宗教組織となる。

セルフ・リアリゼーション・フェローシップの看板。 

 SRFは世界が知らない間にひっそりとスタートした。なにしろ生徒はたったの6人だったのだから。場所を提供してくれたカシム・バザールのマハラジャ(王)であるバハドゥルの寛大さと師ユクテシュワルの適切なアドバイスがなければ、この組織は、存在しえなかったろう。最初の学校長はヨガナンダとバス・クマル、マノモハンの若い3人だった。彼らは教師というより、生徒からすればお兄さんといった感じだったかもしれない。この学校はのちにラーンチーに移された。

 1920年、27歳のヨガナンダに転機が訪れる。ボストンで開催される世界宗教自由会議に参加することになったのだ。世界宗教会議といえばヨガナンダが生まれた1893年にシカゴで開催された宗教会議が知られていた。このときはヴィヴェーカナンダの講演が世界中から集まった人々を魅了したのである。ヴィヴェーカナンダのようになれ、と師に言われたヨガナンダは是が非でも参加したかったろう。

ただし、当時、渡米するには巨額の費用を必要とした。じつはこの際には父親のサポートが欠かせなかった。父バガバティ・チャランは(ヨガナンダの師の師である)ラヒリ・マハサヤからクリヤー・ヨーガのイニシエーションを受けていた修行者でもあったので、事の重大性を理解していた。

 渡米してからの数年間は東海岸を中心に講演を重ねた。そして1924年、ヨガナンダはロサンゼルスに移り、マウント・ワシントンにセルフ・リアリゼーション・フェローシップ(SRF)を創建した。この頃にはすでに相当数の信者やサポーターを獲得していた。その後順調に組織は拡大し、世界54か国にまたがる巨大なスピリチュアル・センターとなった。そして1946年に出版された『あるヨギの自叙伝』がロングセラーとなり、相乗効果でさらに多くの信者と読者を増やすことになった。

 


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