イッサ仏                        宮本神酒男

 ラダックの都レーに入ると、ノトヴィッチはラダック地方長官のウェジール・スラジバルから歓待を受けている。

「私を元気づけるために昼はバザールの広場でポロの試合を開き、夜は彼の屋敷のテラスの前で踊りやゲームが催された」

現在の感覚からすれば、いくら外国人が珍しかったとはいえ、いきなり行政のトップにもてなされるのは奇異なことである。ノトヴィッチがロシアのスパイであったとしても不思議でない。実際、ラドヤード・キプリングはノトヴィッチにヒントを得てグレート・ゲーム時代の小説『少年キム』のスパイを創出したという。

 翌日、ノトヴィッチはヘミス僧院(ヒミスと記される)を訪ねた。
 イッサ文書を求めてではなく、当初からフェスティバル(チャム、すなわち宗教仮面劇)が行われることを聞かされていたのだろう。ヘミス僧院のチャム、とくに旧暦6月24日(新暦の7−8月頃)のチャムは有名で、いまもツアーの目玉となっているほどだ。
 予備知識もなしに見たチャムはさぞ壮観で物珍しかったことだろう。中心人物がパドマサンバヴァ(ペマチュンネ
Poudma-jungnasと表記)であることは認識できたようだが、ブラフマー(ツァンパ・カルポ Sangspa Kourpoと表記)などを除くと人物や神格はほとんどわからず、劇の筋も十分に理解できなかった。チベット研究がほとんどなされていない時期であったので、いたしかたないだろう。

 チャムやチベット仏教について説明を受けているとき、ノトヴィッチはおもむろに数日前、ワハの寺でラマから聞いた「イッサというブッダ」について質問した。

「イッサは仏教徒からも大いなる尊敬を受けています。しかしイッサの経典はそれほど読まれていません。というのもイッサのようなブッダは無数にあり、それぞれの伝記が84000巻もの経典に書かれているのです」

 ラサを訪ねるラマはひとつ、あるいはそれ以上の写本(経文)を属する寺院に寄贈するのが習慣になっているという。

「ですからわたしどものゴンパ(寺)にもすでに相当の写本があるのです。そのなかにはイッサ仏の生涯について書かれたものもあります。それにはインドやイスラエルの子供たちのなかでイッサがお教えになったことが記されているのです。イッサは異教徒によって死に至らしめます。しかしイッサの布教した教えはいまもあなたがたのなかに受け継がれているのです」

 ヘミス僧院のラマはさらに驚くべきことを言う。

「大いなるブッダ、すなわち宇宙の魂は、ブラフマー(梵天)の生まれ変わりなのです。ブッダはつねに忍耐強く、時のはじめから自らのなかにすべてのものを包摂していらっしゃいます。そしてその息吹によって世界を息づかせるのです」

 さらに続ける。

「3000年前、偉大なるブッダはサキャムニ王子に生まれ変わりました。このようにして20回も転生するのです。2500年前、偉大なる世界の魂はゴータマに生まれ変わりました。そしてビルマ、シャム、その他の島々に新しい王国の基礎を作ったのです」

 ブッダの教えが中国にもたらされたことを語ったあと、いよいよ話は核心に入る。

「そして2000年前、不活動の時期を打ち破って完全なる存在は貧しい家庭に生まれ変わります。この聖なる子供が少年のとき、はるばるインドまでやってきました。そしておとなになるまでブッダの法を学んだのです」

 もう、いいだろう。チベット仏教を学んだ者でなくとも、仏教全般を多少かじったものでも、このヘミス僧院のラマの話が捏造であることがわかるだろう。
 ブラフマーはブッダが悟りを開いたとき、人々に語るよう説得したとされ、仏法の守護神とみなされるようになるが、さすがにブッダがヒンドゥー教の神、ブラフマーの生まれ変わりなんていうことはない。
 それにノトヴィッチはどうやらサキャムニとゴータマは別人物と考えている。なによりもノトヴィッチの文が奇妙なのは、こうしたいわばエセ仏教を、ラマ(チベット僧)の口を借りて語らせていることだろう。
 百年のち、年間何百点もの英文で書かれたチベット僧による本が出版される時代がやってこようとは夢にも思わなかっただろう。

 ノトヴィッチは最後にこのラマに、イッサ文書は「パーリ語で書かれている」と語らせている。パーリ語のほうがより古く、正統に見えると考えたのだろうか。
 ヘミス僧院が所持している文書はパーリ語をチベット語に翻訳したものであるらしい。しかし一般的にチベット僧はサンスクリットを学習することはあっても、パーリ語を学ぶことはない。それにパーリ語で最初書かれたとしたら、それはどの文字が用いられたのだろうか。パーリ文字なんてものは存在しないのだ。(サンスクリットはデーワナガリ文字で記される)

 ノトヴィッチは翌日レーに戻ったが、イッサ文書を見たかったので、目覚まし、腕時計、温度計という贈答品を使者にもたせてヘミス僧院のラマに書を送った。しかし時間に余裕がなく、馬に乗ってカシミールへ向かった。
 だが何と言うことか、ノトヴィッチは馬に投げ飛ばされ、足の骨を折ってしまう。彼はレーに戻りたくなかったので、ヘミス僧院に滞在することにした。彼は僧院のなかで手厚い治療を受けながら、念願のイッサ文書を読んでもらう……。



⇒ つぎ 







ラダックのヘミス僧院