(3)瞑想によって聖霊と交信する 

 彼を受け入れた者、すなわちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血筋によらず、肉の欲によらず、また人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。(「ヨハネ福音書」11213

 ヨガナンダがヨハネ福音書のこの一節を引用するのは、瞑想状態に入るためには、まず信仰の気持ちを持ち、心を浄化すべきだと考えるからだろう。そして準備が整えば、聖霊と交信することも可能なのだ。

 宇宙の波動、すなわち聖霊と交信する方法として、クリヤー・ヨーガの技法が広く知られています。聖霊の祝福を通じて、人間の意識の杯はキリスト意識の海を受け取るほど大きくなるのです。クリヤー・ヨーガの技法に熟達した者は、意識的に聖霊の存在を体験し、神の子、あるいはキリスト意識のなかに溶け込み、そうして父なる神を理解し、無限の神の王国へと入るのです。

 聖霊、すなわち限りなく祝福された慰めを与える者との交信の技術を会得した信心深い者の意識のなかに、キリストはふたたび姿を現すでしょう。(ヨガナンダ『イエスのヨーガ』)

 聖書の文言には聖霊との交信の仕方が隠されているとヨガナンダは考える。たとえばつぎの一節だ。

 わたしは預言者イザヤが言ったように、「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」である。(「ヨハネ福音書」123

 人の感覚が外側の世界のことにとらわれているとき、人は物事の複雑な相互作用のまっただなかでとても忙しく生きているのです。目を閉じてお祈りを唱えているときも、ほかの考えにふけっているときも、人は多忙な空間にいるのです。本当の荒野、そこには世俗的な考えも、落ち着きのなさも、人間の欲も、攻撃もありません。それは感覚の心、意識下の心、超意識の心のなかに、すなわち霊の宇宙意識のなかに見出されるのです。

 ヨハネは沈黙の荒野のなかで全知の宇宙の音を聞きました。直感的な知恵が命令を下します。「主の道をまっすぐにせよ」と。主は、宇宙の波動の創造において主格の宇宙意識をあきらかにします。それは超越的なエクスタシーのなかで直感的な感情を通じて、神聖な形而上学的な生命の中心と意識がまっすぐに伸びた中枢の道に解き放たれるのです。

 (パンタジャリなどの)ヨーガ論は中枢の覚醒について、神秘主義的な逸脱ではなく、神の存在にいたる道を見つけたあらゆる信仰者に普通に純粋に起こるものとして説明しています。ヨーガは、宗教のイズム(主義)の垣根を取り払います。ヨーガは、魂と神との、あるいは人と創造主との聖なる結合を導き出す普遍的な方法なのです。(ヨガナンダ『イエスのヨーガ』)





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