(4)第二の誕生
パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った。「ラビ、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっているようなしるしは、だれにもできはしません」。
イエスはこたえて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでもあたらしく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年を取ってから生まれることがどうしてできますか。もう一度母の胎に入って生まれることができましょうか」。
イエスはこたえられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれるものは霊である。あなたがたはあたらしく生まれなければならないとわたしが言ったからとて、不思議に思うにはおよばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それとおなじである」(「ヨハネ福音書」3−1〜8)
新しく生まれなおすという概念は、二千年前のユダヤ人社会においては画期的な考え方だったろう。指導者層(おそらく最高法院の議員)に属するニコデモもそれに共鳴してひそかに信者となる。イエスのことを「ラビ」と呼ぶのは、敬意を示してのことだろう。
ヨガナンダはこのことを「直感」によって把握すべきだと主張する。まるで禅宗でいう悟りのようである。
「第二の誕生」、それはイエスによれば不可欠なものなのですが、それによって、われわれは直感的に真実を捉えることができるのです。新約聖書に「直感」という言葉は出てきませんが、直感的知識についての言及は少なくないのです。じつにニコデモの訪問を描く21もの節が、濃縮された警句として、神聖なる意識の無限の王国へいたる実践的な秘儀的な教えを示しているのです。(ヨガナンダ『イエスのヨーガ』)
一度死ななければ、生まれなおすことはできない。あたらしい自己を得るためには、秘儀イニシエーションを経なければならない。キリスト教においてはそれがバプティスマなのである。「水と霊から生まれる」と聖書のなかでイエスが言うとき、それはバプティスマによって魂が刷新されることを意味しているのだ。
「水から生まれる」とは、死後神の国へ行くことができるように、比喩的な再生という意味で、水による洗礼という外的な儀礼をおこなうことを指します。しかしイエスは水に関わる再生とは言っていません。「水」はここでは原形質を意味します。身体はほとんど水でできていて、母親の子宮の羊水からこの世における存在がはじまります。神の創り給うた生物学的法則による誕生のプロセスから魂は生成されるのですが、この肉体があれば神の王国を見たり入ったりするのに十分だとはいえません。
通常の意識は肉体というくびきにつながれています。ふたつの目を通じて見られるのはせいぜい地上のちっぽけな劇場と星空くらいのものです。肉体に閉じ込められた魂は五感の窓から、物質の向こう側の驚異を感じ取ることはできないのです。
イエスはこう指摘します。人の魂が具現化したあと、すなわち水、あるいは原形質から生まれたあと、自己発展によって肉体に課せられた死すべき運命を乗り越えなければなりません。第六感、いいかえれば直感を呼び覚まし、霊的な目をあければ、輝かしい意識は神の王国に入っていけるのです。第二の誕生においては、肉体はそのままですが、魂の意識はもはや肉体にしばられることはなく、限界のない、霊の喜びの国を自由に闊歩することができるのです。(ヨガナンダ『イエスのヨーガ』)