13章 ケルステンの『インドに生きたイエス』 

ホルガー・ケルステン登場 

 ノトヴィッチがもたらした「イエスの失われた17年(18年)」というテーマが、読み物のコンテンツとして優良であることを示したのは、作家エリザベス・クレア・プロフェットの『イエスの失われた歳月』(1984 邦題『イエスの失われた十七年』)だった。その一年前にホルガー・ケルステンの『インドに生きたイエス』(1983)がドイツで出版されていたのだが、英訳版が出て大きな反響を呼んだのは1994年のことである。その後版を重ね、(邦訳の謳い文句によると)37か国語400万部のベストセラーとなった。しかし邦訳『イエスの復活と東方への旅』が国内で出版されたのは、なんと2012年3月である。日本人や非キリスト教徒にとっては関心の薄いテーマなのだろうか。

 しかしキリスト教徒にとって、イエスが13歳から30歳までのあいだ、どこで何をしていたかは気にせずにはいられないことだった。イエスが久しぶりに生地のナザレに戻って教えを説いたとき、地元の人々はイエスの変わりように目を見張る。「この人は大工の子ではないのか」「こんな数々のことを、いったいどこで習ってきたのか」(「マタイ福音書」1353

 普通に考えればエジプトやインドのような遠くではなく、都会のエルサレムに出て、大工、あるいは石工として働いていたのかもしれないし、パレスチナのどこかでエッセネ派などの宗教活動に携わっていたのかもしれない。しかしもしエルサレムに長年いたのなら、「いったいどこで習ってきたのか」と疑問に思う必要はなく、「エルサレムで習ったのか」と言えばすんだはずだ。そう言わなかったのは、イエスが異国で学んだことを人々は暗に知っていたからではないか。

 ケルステンがより興味を持ったのは、イエスの「磔刑後」だった。イエスが磔刑を生き延びてインドにやってきて、百歳以上の長寿をまっとうしたという説を唱えていたのは、すでに述べたように(6〜8章)ミルザ・グラーム・アフマドとイスラム教アフマディヤ派の人々だった。

 そもそもコーランには、イエスが処刑されなかったどころか、十字架にかけられることもなかった、と書いてあるのだ。磔刑に処されて死んだとするのは「ユダヤ人の憶測にすぎない」という。(コーラン4章156)

 磔刑はともかくとして、彼らの主張によればイエスはそのあとインドのカシミールにやってきた。なぜカシミールかといえば、カシミール人はイスラエルの失われた10支族の末裔であり、その彼らにこそ教えを広めるべきだと考えたからだ。

 そのカシミールにはイエスの墓があった。その墓の存在を根拠に「イエスはインドで亡くなった」説を唱えていたのは、地元カシミール出身の大学教授であり、スーフィーでもあったフィダ・ハスナインだった。彼の著書『第五福音書』はかなりあとになって出版されたものだが、早くから論文は発表していて、それらがケルステンの目にとまっていただろう。ノトヴィッチに加えてアフマドとハスナインの書いたものにケルステンが触発されたであろうことはまちがいない。

 ケルステンはカシミールのイエスの墓が本物であると信じていた。聖者廟というのはしばしばその肝心の主がだれかわからなくなっていることがあるが、彼はカシミールのローザバルの聖者廟の主はイエスにまちがいないという確信をもっていた。だからこそカシミールの警察署長に発掘の許可を申請するという挙に出たのである。結局許可は下りなかったという。

 ケルステンの仮説は取り立てて新しいものではなかったが、墓を発掘しようとしたことに示されるように、いままでにない角度から真実にアプローチしようとした。たとえばトリノの聖遺骸布を科学的に徹底的に検証し、イエスが磔刑を逃れたことを証明しようとしたこともそのひとつだった。また信用の置けるものからあやしげなものまで、さまざまな情報をあつめてエンサイクロペディアのごとく示したのも功績といえるだろう。





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