ケルステン説の検証 

ナータ派が伝えるイシャ・ナート 

 ケルステンがミステリアスな宗派と呼ぶヒンドゥー教のナータ派(ナート派)もまた、彼らの『ナータ・ナマヴァリ』という経典のなかにイッサ伝説を伝えている。イッサ、すなわちイエスはここではイシャ・ナートと呼ばれている。アートマ・ジョーティ・アシュラムによる要約をここに示そう。

 

『ナータ・ナマヴァリ』からの抜粋 

イシャ・ナータは14歳のときインドにやってきた。母国へ帰ったあと、彼は教えを説き始めた。そのあと残虐で即物的な同胞たちはまた彼を陥れて彼を磔刑に処した。磔刑のあと、あるいはその前にイシャ・ナータはヨーガによってサマディに入った。(ヨーギはしばしばサマディによって肉体を離れる。それゆえイエスは十字架の上では実際死ななかったともいえるのだ) 

この様子を見てユダヤ人たちは彼が死んだものと思い、彼を墓に埋めた。しかしその瞬間、彼のグルのひとり、偉大なるチェタン・ナータはヒマラヤの麓で深い瞑想下にあった。そして幻影のなかに拷問に苦しむイシャ・ナータの姿を見た。それゆえ彼は自身のからだを空気より軽くし、イスラエルの地に飛んで行った。 

彼が到着すると稲妻が光り雷鳴が轟いた。ユダヤ人たちにたいして神々が怒り、世界中が震えた。チェタン・ナータが来ると、イシャ・ナータのからだを墓から出し、サマディから呼び起こした。そしてアーリア人の聖なる地へと運んだ。イシャ・ナータはヒマラヤの麓にアシュラムを建て、リンガの宗教を確立した。リンガの宗教はヒンドゥー教シヴァ派のことだった。

この主張はカシミールで発見されたイエスの二つの遺物から裏打ちされる。ひとつはアイシュ・ムカンの寺院に保存されている杖だ。それは洪水や疫病などの災難が起こったときに、大衆は触れることができた。もうひとつはイエスがカシミールに運んだとされるシヴァ・リンガであるモーセ石である。このリンガはカシミールのビジベーハラの寺院に保存されている。それは108ポンドの重さがあるが、11人の人が石の上に指を置き、「カ」のビジャ・マントラを唱えると、それは3フィートの空中に浮かんだ。唱えつづけるかぎりそれは空中にとどまった。シヴァは吉兆の人を意味し、人々を祝福し、幸福をもたらした。古代サンスクリット語によれば「カ」は喜ばせ、満足させることを意味した。すなわちシヴァが信仰する人々にしていることだった。 

 

 神話化がいっそう進み、イエスの実在性はいよいよ希薄になってしまっている。プラーナ文献のひとつ『バヴィシュヤ・プラーナ』と同様、『ナータ・ナマヴァリ』もまた創り出され、加筆されたいわば「成長する古代文書」であった可能性が高い。厳密にいえば偽書なのだろうが、アートマ・ジョーティ・アシュラム(やはりパラマハンサ・ヨガナンダの影響下に生まれたという)のようなメディテーション・センターにとっては、根本的な経典のひとつなのである。

 




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