聖骸布は物語る
イタリアのトリノ大聖堂に保管されている聖骸布、すなわちイエスの亡骸を包んだ布の真偽論争は長い間おこなわれてきた。はじめて科学のメスが入ったのは、1973年のスイス人マックス・フライ博士による花粉調査だった。聖骸布からはレバノン杉を含む49種の花粉が検出されたが、そのうち11種類は中東に生息する塩生植物だった。つまりそれらは死海周辺の植物の花粉だったのだ。
しかもほかの8種類の花粉は小アジアにのみ生息するものだった。ケルステンはそれらがエデッサ(現在のトルコのウルファ)のものであってもおかしくないと指摘する。
エデッサは初期キリスト教の拠点となる場所だった。歴史家エウセビオス(260−340)によれば、アブガル王とイエスのあいだで往復書簡がかわされた。慢性の吹き出物(おそらくらい病)に悩まされていた王は、イエスの奇跡的な癒しの力を求めたのだった。 *第4章の「トマス伝説」で述べたように、実際に(イエスではなく)トマスの使者アッダイと会ってキリスト教徒になったのは、アブガル9世だった。ケルステンはこのあたり、やや歴史的正確さを欠く。
イエスのかわりにアッダイ(ギリシア語でタダイオス)がエデッサへ行ったのは、イエスが磔にされた紀元33年のことだった。そのときアッダイは書簡だけでなく、マンダリオン(自印聖像)も携えていた。マンダリオンとは、奇蹟によって自らの姿を布に写したイコンのことである。ケルステンはこれを聖骸布ではないかと考えた。遺骸を包んだ布であるなら死によって穢れているので、自画像を写した布というふうに見せかけたというのである。
639年、アラブ軍はエデッサに侵攻し、聖骸布を入手した。しかし裕福なクリスチャン、アタナシオスが取り返し、町の教会の地下室に隠した。
944年、ビザンチン帝国からの執拗な要求に耐えきれず、ついに聖骸布が持ち出され、コンスタンティノープルへ運ばれる。
1204年、第4回十字軍がコンスタンティノープルを襲撃したさい、騎士のロベール・ド・クラリはさまざまな戦利品を持ち去った。そのときに聖骸布も姿を消し去ったので、持ち去ったのではないかと思われる。
その150年後、聖骸布はフランスに現れた。そして紆余曲折を経て、1578年、聖骸布は現在の保管先であるトリノへ運ばれたのだった。
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