磔刑後、インドへ 

 磔刑を逃れたあと、イエスはダマスカスにしばらく滞在したとケルステンは推測した。ダマスカスではエッセネ派の庇護下にあった。町から5キロほど離れたところにはマユアム・イ・イサ、すなわちイエスが生活した場所という地名がいまも残っているという。しかしローマ帝国の属州であるシリアに長くとどまることはできなかった。

 イエスは小アジアのニシビス(現在はイラク国境に近いシリア領)の王から手紙を受け取った。王の病気の治療を求められたのである。治療のためにすぐにトマスを送り、自身は母マリアとともにニシビスへ向かった。

 そのあとイエスはアナトリア北部のアンドラパ(現在のイスキリプ)へ行った。そこでおこなわれた王女の結婚式の宴のエピソードは「トマス行伝」に詳しく記されている。別々に行動していたイエスとトマスはアンドラパで再会したらしい。

 シルクロードに沿ってイエスとマリアに関連した地名が数多く残っているという。磔刑後、カシミールにやってくるまで、16年以上の歳月が流れた。その大半をペルシアやアフガニスタンで過ごしたという。

 10世紀のイランの歴史家シャイフ・アルサイード・ウス・サディクは、その著書『イクマル・ウッディーン』のなかで、イエス(ユス・アサフ)の旅とカシミールでの生活について述べている。ユス・アサフは120歳の長寿をまっとうした。カシミールのスリナガルの旧市街にあるローザバル廟こそがユス・アサフの墓だった。

 
⇒ バヴィシュヤ・プラーナ 

⇒ つぎ(第14章)