14章 ハスナインの『第五福音書』 

驚くべき人物、フィダ・ハスナイン 

 フィダ・ハスナイン(1924〜)はカシミールのスリナガルに生まれた。スリナガルには「イエスの墓」や「モーセの墓」があり、ノトヴィッチが「イッサ文書(イエスの知られざる生涯)」を発見したラダックもとなりの地域である。ハスナインはいわばご当地の学者なのである。

 ホルガー・ケルステンにとっても、「彼のことはさんざん聞いてきた」もっとも会いたかった人物だった。ケルステンの説明によれば、数冊の本を著した世界的にも有名な学者で、客員教授として日本や米国を訪れたことがあり、カシミール仏教研究所の所長で、シカゴの人類学国際会議のメンバーだった。また1985年に引退するまでカシミールのすべての博物館や公文書館の所長でもあった。付け加えると、ハスナインは日本に6回招待されている。

 考古学も彼の専門だったので、カシミールのイエスやモーセの墓とされる廟もまた専門的な目で見ることができた。ラダックをはじめて訪れたのは1960年のことだった。そこではおもにチベット密教について研究した。またブルクパ(チベット語・ラダック語で遊牧民の意味)についても調査し、彼らがアレクサンダー王の末裔であるという確証を得た(現在では末裔説は懐疑的に見られている)。おそらくラダック北西部のダー・ハヌー村を実地調査したのだろう。

 退職後、ハスナインはスーフィズムにめざめ、導師の指導のもとスーフィーを実践しているという。イスラム教神秘主義者という側面も持つようになったのだ。

 カシミールのイエスについていつごろから研究をはじめたかは不明である。このテーマは学者としてのキャリアに傷を与えかねないので、若いときは論文も控えていたのかもしれない。しかしケルステンが「インドに生きたイエス」について書こうとしたとき、すでにハスナインは考古学資料や文献資料を相当保有していたと思われる。それらなしにケルステンの本はありえなかったのである。

 ハスナインはサンスクリット語やウルドゥー語だけでなく、アラブ語やペルシア語、チベット語などさまざまな言語・地域の資料を駆使した。昨今はアマチュアを含め、さまざまな作家や研究者がインドのイエスについて書いているが、ハスナインの豊富なバックグラウンドはなお色あせていない。

 




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