古代チベットはイエスを知っていたか 

 イエスの教えは弟子や信者らによってパルティア、ソグディアナ、ガンダーラその他中央アジアの国々に伝わった。これらの国々の仏教徒にとってイエスは未来仏だった。聖ヒッポリュトス(170?−235)はヨハネの黙示録がパルティアのセレス人の地からやってきたと述べている。ヒッポリュトスはまた(エルカサイ派の)エルカサイオスの書はパルティア起源と記している。セレス人は中国人かチベット人であり、エルカサイオスの書はいわば中国人あるいはチベット人の福音書である。

 ハスナインはこのように述べるが、残念ながら中国人とチベット人をも混同しているありさまでは、説得力に欠けると言わざるをえない。しかし第5章「知られざる17年・チベットへ」で述べたように、イエスにはインドだけでなくチベットへも行って学んでいてほしいという願望がわれわれの心にはあるのかもしれない。『宝瓶宮福音書』でも中国人とチベット人を混同しているのだが。

 ハスナインは古代からイエスが知られていた証拠として、トゥカン・ロサン・チューキ・ニマの「宗義書水晶鏡」の一節を訳出する。

 その宗教の教師であり創始者であるイエス(Yesu)は奇跡的に生まれ、みずから世界の救世主と称した。彼は弟子たちに十の誓約を守るよう命じた。誓約には殺人の禁止、善行による永遠の喜びと幸福の成就が含まれていた。人は悪行をすれば地獄に落ち、永遠に苦痛と悲惨を味わうことになると教えた。意識的に罪を犯した場合、どんな慰めも得られず、許されることはないと言った。これはブッダの教えの徳の結果(功徳)のことである。その教義は広まったとは言い難いが、アジアには長く生き延びた。以上のことは中国の史書から得たものである。

 ハスナインはこのトゥカン・ロサン・チューキ・ニマの宗教史書が1801年頃に編纂されたという重要な事実を明示しないことによって、不誠実である。トゥカン・ラマは現在の青海省の高僧だが、チベットにはすでに何人もの宣教師がやってきていた。中国は早くにネストリウス派(景教)が伝播し、唐代にはその隆盛をみていた。しかしチベット人がキリスト教について言及するのは、それ自体画期的なことだった。イエス(Yesu)の音はたまたまアラム語に近いのだが、それは耶蘇の中国音にすぎず、トゥカン・ラマがキリスト教に詳しいということはなかった。

 ラダックにはネストリウス派の十字架の岩画もあり、キリスト教がチベット中央部にまでやってきた可能性は少なくないが、文字資料には残っていない。今後の考古学的発見に期待したい。

 





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