仏教とキリスト教の比較 

 サラーフッディーンは、仏教とキリスト教のあいだには、偶然以上の深い結びつきがあるのではないかと考えた。もし両者が非常によく似ていたなら、イエスが12歳と30歳のあいだにインドへ行き、仏教を学んだという論の証しになるかもしれない。そこまで似ていない場合は、宗教の真理というのは宗教の違いを乗り越えて共通するものがあるという結論が導き出されるのではなかろうか。仏教は発句経(ダンマパダ)から、キリスト教はマタイ福音書やルカ福音書のもととなったQ資料から抽出したものである。

 

仏教(発句経)

Q資料

地上の絶対君主よりも、世界の支配者よりも、預流果(悟りの第一歩。聖者の流れに入ること)のほうがすぐれている。

すぐれた人間にとっては、世界を手に入れたとしても、自己を失い、打ち捨てられることになるだけだ。

たしかに一つの道は現世的な利得に通じ、もうひとつの道はニッバナ(安らかな境地)に通じる。ブッダの弟子である比丘(出家僧)はこのことを理解し、現世的な喜びに浸ることはせず、執着を捨て去らねばならない。

ひとは二君に仕えることはできない。一方を憎み、もう一方を愛する、あるいは一方に誠意と尽くし、もう一方を軽蔑する。あなたは神と富の両者に仕えることはできない。

愚者よ、螺髪で見栄をはったところで何になる? 羚羊の皮の飾りが何のためになる? 内側を情欲で満たすのなら、外側を飾りたてたところで無意味だろう。

恥を知れ、ファリサイ人! コップや皿の外側を磨いても内側が貪欲と淫乱であれば意味がない。愚かなファリサイ人よ! 内側を磨け。そうすれば外側もきれいになるだろう。恥を知れ、ファリサイ人! おまえは集会では最前列が好きだろう。市場であいさつをかわすのが好きだろう。恥を知れ! おまえは墓場のようだ。外目には美しいが、中は穢れている。

賢者は悪や快楽を捨て、安らかさ(ニッバナ)の境地を得るために徳のある行いをするだろう。そうして彼は住処をもたない者となるだろう。

それゆえ私はこう言う。無一物になった者は光に包まれるだろう。しかし分け前にあずかった者は闇に包まれるだろう。

たとえ若い比丘(出家僧)でも、ブッダの教えに身をささげるなら、雲から出た月のように世を照らすだろう。

私のあとに従おうとする者は自分自身を知らなければならない。そしてわがくびきを耐えなければならない。

心をとどめる人は努力を怠らない。住むところに執着はしないだろう。鶴が水場を捨て、住処を変えるように、彼らは一か所にとどまらない。カルマを蓄積することなく、食べ物についてもその本質を観察し、その解脱の境地は空(くう)で無相であるなら、鳥の飛ぶ跡のようにあとをたどることはできないだろう。

だれかが言った。「私はあなたがどこへ行こうとついていきます」

イエスは答えた。「キツネはねぐらを持っている。鳥も空中に巣を持っている。しかし人の子はその頭を置くところがない」

ほかの者が言った。「先に私を行かせてください。父を埋葬したいのです」

イエスは言った。「死者は置いていきなさい。だれかが埋葬するでしょう」

ほかの者が言った。「私はあなたについていきます。しかしまず家族に別れの挨拶をさせてください」

イエスは彼に言った。

「鋤に手を置いてから振り返る者は神の国にふさわしくない」

 



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