救世主を救う 

 サラーフッディーンの書のタイトルは、イエスが磔刑に処せられながらも生き延びることができたことを表している。言うまでもないが、キリスト教徒からすれば、イエスが十字架上で死ぬからこそ人類の罪が許される(贖罪)のであって、復活はともかく、生き延びてもらっても困ってしまうのだ。しかしイスラム教徒にとってのイエスは神の格はなく、神聖ではあるが、旧約聖書のイザヤやエレミヤと同列の預言者である。そんな立派なお方が人間の刑罰によってやすやすと死んでしまうはずがない、と考えられるのだ。コーランにもイエスは磔刑によって死んではいないと書かれている。

 サラーフッディーンが引用するのは、前述のフラウィウス・ヨセフスの一節である。(第14章「イエスは磔刑を免れることができたのか」参照)ヨセフスがたまたま処刑場を通りかかったとき、十字架にかけられた3人の知人を発見し、命を助けるよう懇願する。3人のうち二人は治療の甲斐なく死んでしまうが、ひとりは一命を取りとめたというエピソードである。このことから、十字架にかけられてもすぐ息絶えるわけではないことがわかる。

 そして「ヨハネ福音書:の記述かによると、執行人によってイエスはすでに息をひきとったとみなされ、他の十字架上の罪人ように足の骨を砕かれるということはなかった。こうしたいくつもの偶然が重なり、イエスは重傷を負いながらも、墓の中で仮死状態から蘇ったというのである。偶然が重なること自体奇跡だが、イエスは奇跡的な存在なのだから、ありえない話ではない。

 その観点から著された本が元英国王室侍従医のトレヴァー・デイヴィースと妻マーガレットの『復活か蘇生か』(1991)だった。医師の目から解析しているだけに、説得力のある書である。

 磔刑は、焚刑などと比べると苦しみの期間が長く、より残酷な刑罰だった。よく勘違いされるように罪人は両手の内側(の手首に近いあたり)に釘を打たれるのではなく、手の甲の側から打たれるのだが、自分自身のからだを支えるため、その痛みは想像を絶するものがあっただろう。

 足にも当然釘が打たれたはずだ。ローザバル廟のなかにはブッダの足跡(仏足石)のようなイエスの足跡が残されているが、そこに入った傷のような刻線は釘のあとだという。しかし正直なところ、この刻線が釘というのは無理があるのではなかろうか。足跡自体、インド文化の産物である。むしろイエスの墓説にネガティブな材料となるかもしれないだろう





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