(4)イッサをめぐる神学論争 

 グラントがイエスの古文書を発見したという記事が新聞に載り、陰謀論にはまってブランディ師にメールを送りつづけているティム・ハントレーの目にもとまった。神の兵士になるべきだとブランディ師が説いたとき、ティムは言葉を真に受けて自分の考えを実行に移そうとしていた。いわばキリスト教のテロリストだった。彼はイッサ文書がこの世から消えれば、世界はもっとよくなると考えた。手始めに彼はエモリー大学構内に盗んだワゴンを置き、それを爆破させた。そしてつぎにグラントの部屋に忍び込み、パソコン内に保管してあったイッサ文書を撮影した写真を消去した。

 イッサ文書の発見によって話題になったグラント・マシューズは、CNNの中継のもと、エモリー大学の講演ホールでブライアン・ブランディ師と公開討論を行うことになった。この神学的討論は、この小説の前半のクライマックスである。

 グラントは挑発的に質問を投げかける。

「12歳から29歳までのあいだ、イエスが何をしていたか、聖書のなかで述べている箇所がありますか」

「イエスはナザレで家族といっしょに過ごしたのだよ。父ヨセフのような大工になる勉強をしながら」

「でも聖書には何も書かれていないじゃないですか。これらの年月のあいだ黙しているのはなぜですか」

「聖書が何も語っていないのは、そのあいだ特筆すべきことがなかったからだ。重要なことはひとつだけだ。イエスが処女マリアから神の息子としてお生まれになったこと。まあきみは処女懐胎を信じないかもしれないが」

「イエス自身は85回も自分のことを人の子と呼んでいます。われわれはイエスの人間性を強調してはいけないのですか」

「イエスはたしかに人だった。だが神を受肉されたのだ、われわれを救うために」

「カエサルはしばしば神の子と呼ばれ、アレクサンダー大王やダビデ王と同様神聖なる支配者と考えられました。ギリシア神話から派生したローマ神話には、神が女性とのあいだに子をもうけるという話がたくさんあります。ヘラクレスは死すべき人間の母から生まれましたが、父親は神ゼウスです。新約聖書の作者たちはこの神話を知らなかったのでしょうか」

「ナンセンスだよ。神の言葉と異教徒のばかげた話の違いくらいわれわれはだれでも知っているだろう」

「われわれ? あなたは当然ご存じですよね。新約聖書のなかでも早期に書かれたパウロの手紙やマルコの福音書には処女懐胎のことが述べられていないことを」

 こうしてグラントがペースを握り、有利に進めていったのだが、終盤には形勢を逆転する。イッサ文書の証拠自体が捏造だと主張し始め、また、グラントが以前論文を提出したとき、他人の論文を剽窃した過去があると言い出したのである。グラントが証拠として持っていた写真が消去されたことをブランディ師は知っていたに違いなかった。

 テレビ公開討論のあとグラントはインドにもどる。捏造疑惑がかけられたいま、身のあかしをたてるにはイッサ文書そのものを入手するしかない。彼はキンレーから現物を受け取る手はずだった。

 しかしそれを阻止しようと、ティム・ハントレーの魔の手が伸びる……。

 ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』がまれに見る成功を収めたあと、多くの野心をもった人々はつぎなるテーマを探した。その有力候補のひとつがイッサ文書だったのである。このあとに紹介する『カルマ・キラー』や『ローザバル・ライン』もそうして生まれた作品にちがいない。そのなかにあって『風の息』はもっとも洗練され、オーソドックスな手法がきまった秀作だといえるだろう。ダン・ブラウンの作品を側面から支えたのが歴史教師の妻であったのに対し、ジェフリー・スモール自身が宗教学の学者であることは、かなり有利に働いていたようである。




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