(2)イッサ文書はどこへ行ったのか 

 カトマンズのヤク&イェティ・ホテルの一室で、眠りに落ちた新妻のリヴィアの横に坐ってジャコモは資料ファイルを読み込んだ。これは香港の友人バイ・ウェイチンがまとめてくれたものだ。

「ユダヤ人の歴史家が記すところによると、キリスト教は東方の影響を受けたエッセネ派だということです。歴史を見ますと、キリスト教の公的な集会は325年のニカイア公会議にまでさかのぼることができます。そのときにキリストの生涯の具体的な部分が聖典から削除されてしまいました。そこにこそ二つの教え(仏教とキリスト教)をつなげるものがあったのです。

たとえば菜食生活を尊ぶこと、断食や沈黙の行を通して忍耐を奨励すること、親戚縁者や友人との交わりを断ち、禁欲を守り、瞑想や修行に励むこと、聖水を重んじることなどが両者に共通しているのです。説教師や伝道師の姿はおなじようなものですし、僧は魂と身体の番人とみなされています。聖地への情熱的な巡礼も両者に見られ、謙遜と服従も賞賛されます。両者とも肉体を精霊の、あるいは聖霊の受容器ととらえます。そして聖人は病人を癒し、死者をよみがえらせる奇跡的な力をもつと考えます。罪の告白を公にするのは仏教に典型的なことですが、それは教皇レオ1世の頃には祭司の前でなされる私的な罪の告白になりました。さらに転生の教義は553年のコンスタンティノープル会議で異端と認定されましたが、新旧の聖書でも転生は語られています。たとえばバプティスマのヨハネがエリヤの生まれ変わりだとイエスが述べるくだりがそうです」

 ファイルはキリスト教において異端とされるアリウス派をひきあいに出す。のちのイスラム教と、キリスト教にたいする見方が似ていて興味深いのだ。

「アリウス(250336)は、十字架上でキリストは死んでいないとするムハンマドと同様、イエスは偉大なる聖者ではあったが、ブッダとおなじように人間であり、元来は神聖な存在ではなかったと説きました。イタリア、ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂やアリアーニ洗礼堂の古いモザイク画には磔の場面は描かれていません。アリウス派は、イエス・キリストは真の神ではないので磔に重要性はない、言い換えればイエスは十字架上で死ななかった、それゆえ死から復活することもなかった、と信じたのです」

 このあとファイルはスワミ・アベーダナンダに言及する。第2章「アベーダナンダの再発見」で述べたのでここでは繰り返さないが、ミレルパが強調しているのは、1回目にラダックのヘミス僧院でイッサ文書を見せてもらったが、世間から激しく批判されたため、もう一度僧院を訪ねると、文書は行方不明になっていた点だ。しっぽがつかめそうで、なかなかつかめない。

 ファイルはつづいてレーリヒやカスパリ夫人、ロバート・ラヴィッチなどのエピソードを紹介したあと、ウェントゥ・デマスワラについて記している。

「ニュー・デリーの仏教センターの代表でありアショカ・ミッションの創設者であるウェントゥ・デマスワラ師は、イエスがインドやチベットへ行ったという伝説をずっと前から知っていたそうです。ラダックのヘミス僧院を訪ねたとき、僧侶らにそのことについて質問すると、彼らはパーリ語とチベット語で書かれた経典を見せてくれました。それは木の皮から作った古い文書でした。インドとチベットにおいて、ヒンドゥー教と仏教の経典の聖なる知識をイエスがいかに学び、深めたかについて書かれていたそうです」

 私はこのデマスワラという人物について調べているが、現時点ではその実在を確かめることができていない。1948年にアソカ・ミッションを設立したのはダルマワラというカンボジア人僧侶であり、ヘミス僧院へ行ったということも確認できない。ファイルには「パーリ語とチベット語で書かれた」経典としているが、パーリ語が何の文字で書かれたか(普通に考えるならチベット文字だが)あきらかにしていないので、この部分はフィクションの可能性が大きい。あくまで小説の一部だということを忘れてはいけないのだ。

 とはいえノトヴィッチやアベーダナンダ、カスパリ夫人が目にした古文書らしきものがあり、それが消えてしまったのも事実である。

 



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