パレスチナからインドへ歩けるのか      宮本神酒男 

 「イエスのインド伝説史」というジャンルが仮にあるとしたら、故リチャード・ボックとジャネット・ボック夫妻の作製したフィルム『イエスの失われた歳月』(1976)とフィルム作製とともに書き綴ったと思われるジャネットの著書『イエスのミステリー』(1980)はターニングポイントとなるものだった。これらが呼び水となり、ケルステンの『インドに生きたイエス』(1983)やプロフェットの『イエスの失われた歳月』(1984)などイエス伝説を扱った著作がぞくぞくと誕生することになったのである。 

 ボック夫妻が他の研究者や著作家と異なるのは、ビデオカメラを持ってイッサ文書に記される場所を実際に歩いてみようとしたことである。ジャネットは述べる。

「われわれの心に最初に湧き起った疑問は、2千年も前にはたしてパレスチナからインドへ歩けたかどうかということだった。もしそれが不可能なら、伝説の価値自体がただちに消えてしまうことになるのだ」

 残念ながらボック夫妻はエルサレムからシリアやイラク、イランを経てインドまで歩いたわけではなかった。当時はかなり難しかっただろうし、現在も、シリアの紛争が収まればの話だが、きれぎれの旅行をつなぎあわせれば、全行程を歩くことができなくもないだろう。彼らはイエスが歩いたコースのかわりにインド内の関連する場所を訪ね歩いた。

 彼らはまず、カルカッタのラーマクリシュナの本部で、長老のスワミ・プラジュナナンダと会った。スワミは1920年代にラダックのヘミス・ゴンパを訪ね、イッサ文書を見たというアベーダナンダの弟子だったのだ。ジャネットはそのときのやりとりを記録している。

ディック(リチャードの愛称)
「スワミ、師アベーダナンダがヘミス僧院を訪ねたときのことを教えてください」

スワミ
「ええ。25年に及ぶ在米生活を終え、師がインドに戻ってきたのは1922年のことです。師はノトヴィッチの本を読み、そのテーマに興味を持ちました。師は文書が存在するのか、ノトヴィッチが本当に見たのかどうか、知りたいと思ったのです。師は1922年にチベットへ行き、文書を発見し、キリストにまつわるすべてのことを翻訳したのです。このことについて師は『カシミリ・オ・ティベッティ』という本に書きました」

ディック
「アベーダナンダが見たあと、文書はどうなったんですか」

スワミ
「私は直に師から聞いたのですが、師はそこへ行って文書を見せてもらい、さらにそれを翻訳したのです。何年もたってから師はもう一度そこへ行き、文書について尋ねました。すると彼らが答えて言うには、文書はもはやそこにはないというのです。私もしつこく尋ねたのですが、やはりありませんでした。それらは何者かによって持ち去られてしまったのです」

ディック
「でもチベットのほかの寺院に写本があるはずですよね」

スワミ
「そうです。師は本にオリジナルはパーリ語で書かれていて、原本はマルブル寺に保管されていると述べています。あなたはマルブル寺を知っていますか」

ディック
「いえ」

スワミ
「マルブル寺院にパーリ語で書かれた原本があるのです。しかしそれがどこにあるのか、はっきりしません」

ディック
「あなたはキリストに興味がありますか」

スワミ
「ええ、キリストにはとても興味があります。グル(師)はいつもおっしゃっていました。キリストはインドのヨーギだよ、と。師は『キリストはヨギか』という本を出しました。この本の中で師は、キリストはヨーギ以上の存在だと述べています。師は理解していました。キリスト教も、ヒンドゥー教も、ジャイナ教も、仏教徒もみなおなじ信仰の神であることを」

 以上のインタビューから察するに、ノトヴィッチが見たと称するイッサ文書はたしかに存在したが、アベーダナンダが見てからしばらくして、忽然と消えてしまったようである。こんな歴史がひっくり返るような重要な文書がなぜなくなるのだろうか。あまりはっきりしたことは言えないが、ヘミス僧院の一部の僧侶によって捏造された偽書と考えるのが妥当な線だろう。すでに述べたように、マルブル寺院は、マルポリ(ポタラ宮殿が建つ丘)にあったナムギェル寺院のことだろう。ここにそんな重要な経典があったとするなら、たいへんな騒ぎになったはずである。

 このあとボック夫妻はリシケシュのアシュラムを訪ね、故スワミ・シヴァナンダの弟子スワミ・チダナンダから話を聞くことができた。チダナンダは興味深いことに、イエスがヨーガ行者であることを疑おうとしない。

「師スワミ・シヴァナンダはキリストが偉大なるヨーギと信じていました。つまりイエスはラジャ・ヨーガの熟達者だったのです。サマディ、すなわち超意識に通じ、より高い状態で瞑想をしていました」

 


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