イエスはインドで学んだ                  宮本神酒男

 フランシーンが語るイエス・キリストは、「知られざる17年間」と「磔刑後」の二度も外国を旅している。イエスらはまず交易の隊商に参加し、現在のトルコへと向かった。イエスはビザンチウム(のちのコンスタンティノープル、現在のイスタンブール)に数か月滞在し、学者や商人、職人、神学者らと会う機会があった。

 イエスはビザンチウムから東へ進み、「母なる神」について学びながらアナトリア高原を抜け、メソポタミアに入り、バビロンに至った。それからペルシア、アフガニスタンを通過し、インドに達した。

 フランシーンによると、インドには10年近く滞在し、ヒンドゥー教のバラモンや仏教僧のもとで学んだという。イエスはこうして東方の哲学に惹かれていったが、兄弟たち(ヤコブとヨハネ)は懐疑的だった。それというのもローマ人にたいする反抗の精神に染まっていたからだった。この期間にイエス自身の弟子も数人生まれた。イエスは貧しき者たちのあいだに混じり、ヒーリングも行っていた。

 イエスが最初におこなった奇蹟はカナの結婚式でのエピソードと思われているが、本当の最初の奇蹟はカルカッタでらい病の少年を治療したことだった。

 それは驚くべきことではありません。いまでもこの国では、予言者や聖者が空中浮揚したり、治療を施したり、スピリチュアルな知恵を授けたりしているのですから。イエスのおこないは神の意志によるものです。のちの火による洗礼もそうなのです。

 カシミールのスリナガールには、イエス・キリストの墓とされるローザバル廟がある。イエスは磔刑を生き延び、この地域にやってきて、120歳で死んでここに葬られたという。またタハト・スライマン(ソロモンの玉座)という丘に石碑があり、4つの碑銘が確認され、そのうち2つを読むことができた。それにはこう書いてあった。

 この柱を建てたのはビヒシット・ザルガルという者である。年54。

 ムルジャンの息子ホジャ・ルクンがこの柱を建てた。

 このときユズ・アサフは自身の予言能力を宣言した。年54。

 彼はイスラエルの子にして予言者イエスである。

 以上のことはフランシーンの言葉ではなく、シルビア自身が書いたものである。この4行のなかでもとくに4行目は確認を要するだろう。本当にこんなことが記されているのなら、観光客が殺到しないはずがない。

 論理的に考えて、イエスは十字架にかけられたあとも生存し、この地域に戻ってきたことになるはずだとシルビアは言う。つづけて、それはキリスト教の信仰に反していると当然のことを述べている。一方、守護霊フランシーンはこう言った。

 この墓に遺体はありません。なぜならイエスはフランスで死んだからです。しかし地元の人々はイエスを深く信仰していたので、(遺体はないが)象徴的な墓を造ったのです。

 シルビア・ブラウンはしかし、これらについて述べたあと、「イエスの墓」がニセモノである可能性についても言及している。キリスト教がポピュラーな宗教になったのは、イエスの死後数百年たってからのことだからだ。そしてジャネット・ボックやホルガー・ケルステン、ニコラス・ノトヴィッチ、フィダ・ハスナインの本を読むことを推奨している。煽り立てるだけでないことは、評価されるべきである。しかしイエスがインドで過ごしたことには確信をもっているようだ。

 イエスは26歳のとき、インドを離れ、エジプトへ行った。そこで彼は古代エジプトやペルシアの神秘主義やグノーシス主義を学んだ。一年後、クムランに戻り、エッセネ派の人々とともに過ごした。マグダラのマリアと親しくなったのはこの時期のことだった。イエスはエッセネ派の一員として認められるようになっていた。

 


⇒ つぎ