ブリテンへ、そしてふたたびインドへ
磔刑の六か月後、迎えに来たアリマタヤのヨセフとともに、イエスと家族はクムランを出て、二週間かけて海岸の町テュロス(現在のレバノンのスールー)に着いた。暗い夜、彼らはヨセフが準備した装備の整った船に乗った。イエスとともにいたのは、マグダラのマリア、イエスの母マリア、ヨセフ、ピリポ、ヤコブだった。ヨセフの説明ではブリテンというところへ行くのだが、彼らにはよくわからなかった。
船は海岸に沿って北上し、トルコのエフェソスに着いた。イエスはアリマタヤのヨセフにブリテンに行ってもらい、イエスの教えを広め、3年以内にエフェソスに戻ってきてくれるよう頼んだ。この計画は実行され、グラストンベリーにキリスト教徒の居住区が確立されることになる。イエスは母マリアをここに残し、兄弟のヤコブに母の面倒を見てもらうことにした。
イエスはマグダラのマリアとピリポをつれてふたたびインドへと向かった。この旅の途上でイエスとマリアの第一子、サラが生まれた。イエス、マリア、ピリポはおよそ一年半、カシミールに滞在した。それからヨセフ、母マリアと会うため、彼らはエフェソスに戻った。
エフェソスで待つこと数週間、ヨセフの船が帰ってきた。彼らは船で西へ向かい、ギリシア、イタリアにしばらく滞在し、それからヨセフがキリスト教の活動拠点を築いたブリテンへと向かった。ブリテンのあと、彼らはフランスへと船旅をつづけ、マルセイユの近くに上陸した。最終的に彼らが落ち着いたのは、レンヌ・ル・シャトーおよびラングドックだった。なぜ彼らがここを選んだのかさだかでないが、シルビア・ブラウンが言うには、スピリット・ガイド(守護霊)のフランシーンがそう語ったのだという。
のちにはこの地にグノーシス派の共同体であるカタリ派が生まれた。シオン修道会やフリーメイソン、テンプル騎士団などもまたフランスやイングランドのこういった地域をルーツに持っているのだ。おそらくイエスとマグダラのマリアの聖家族の後裔を守るためにこうした秘密組織が生まれたのではないかとシルビアは推測している。
イエスとピリポ、ヤコブもマグダラのマリア、サラ、アリマタヤのヨセフとともにフランスに来ました。イエスはダヴィド・アルベンジャントゥンという名を名乗りました。イエスは新しい土地で新しいアイデンティティを持って、安全な生活をはじめたのです。
イエスとマグダラのマリアから次女のエステルが生まれた。そしてふたりの男の子が生まれた。マリアは数度の流産も経験した。イエスの教えはその後、グノーシス主義として伝えられることになる。聖杯とは、サングレアル、すなわち王統の血をもたらしたマリアの子宮のことだった。
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