プロフェットの「イエスの失われた歳月」       宮本神酒男 

 アマゾンに寄せられた何十ものレヴューを見ると、読者の大半はエリザベスが終末カルトの教祖であったことを知らないか、あるいは知っていても意に介していないことがわかる。(娘エリン・プロフェットのいわば暴露本である『予言者の娘』にはCUT、つまり教団のメンバーから多数の反発のレヴューが寄せられている)

カルトの百貨店のような米国にあっては、はずれた予言はそれほどのインパクトを残さなかったのかもしれない。偏見を取り除けば、エリザベスがインドを経験したイエスを通して、キリスト教に欠けていると思われがちな女性崇拝的要素を見出そうとする努力を評価できるかもしれない。

 エリザベス・クレア・プロフェットは終生、ノトヴィッチがラダックのヘミス僧院で発見したイッサ文書を本物と信じていた。「これは宗教の本ではなく、歴史の本です。いまの時代でもっとも重要な歴史の本なのです」とまで言い切っている。

 エリザベスが信じて疑わなかったのはなぜかといえば、イッサ文書を見たのはノトヴィッチだけではなかったからである。彼女は「イッサ文書発見史」ともいうべき短い文章を書いている。

 私は自分の本(『イエスの失われた歳月』)に、聖イッサのことについて書かれた文書の三つの翻訳を載せています。最初の翻訳は、ロシアのジャーナリスト、ノトヴィッチが1887年にラダックのレー近郊の仏教寺院で発見した写本です。彼は1894年に『聖イッサの生涯 人の最善の息子』と銘打って出版しました。

 学者でラーマクリシュナの弟子であるスワミ・アベーダナンダは、1922年にヒミス(チベット寺院のヘミス)で文書を見ました。彼はヒミスで写本を見つけようと、というよりペテンをあばこうと考え、ヒマラヤへ行ったのです。彼は「Kashmir O Tibbate」という旅の本に、ヒミス・ゴンパを訪ね、ノトヴィッチが見つけたのと同じ写本を目にしたことを書き、そのベンガル語訳を掲載しました。私はアベーダナンダのベンガル語訳をはじめて英語に翻訳しました。

 同一なのか、類似しているだけなのかわかりませんが、ロシアのアーティストであり考古学者で作家のニコラス・レーリヒもまた、1925年に文書を見ました。レーリヒは5年以上かけて中央アジアを旅し、その地域にイエスの東方への旅が伝承されていることを知ったのです。

 エリザベス(エリザベト)・カスパリもまたその文書を見ました。1939年、彼女はヒミスで司書僧から手書きの経典を見せてもらったのです。僧はカスパリ夫人に「あなたたちのイエスのことが書かれているよ」と言ったそうです。

 1951年には、最高裁判所判事のウィリアム・O・ダグラスがヒミスにやってきました。彼はのちに『ヒマラヤの高峰を越えて』という本につぎのように書きました。

 現在にいたるまで、イエスがここに来たと信じている人々がいます。イエスは14歳のときここに来て、28歳のとき西へ向かって去って行きました。それからの消息は知られていない、というのです。イッサという名でヘミスまで来たという伝説によって、空白が埋まるというわけです。

 1世紀以上もイッサ文書は知られ、目撃されてきました。イッサ伝説の写本と伝承の存在は、イエスが17年間を東方で過ごしたことを物語っています。それはパレスチナでのミッションの舞台稽古となったのでした。

 イッサ文書が偽書かもしれないという可能性すら考慮しないのは、彼女が学者ではなく、宗教家だからだろう。われわれからすれば、たとえかぎりなく偽書に近いと思われたとしても、わずかでも本物の可能性はあれば、信じることができるのだ。なぜならイッサ文書のイエスのほうが彼女にとってより価値が高いからである。

 


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