2章 忽然と消えたイッサ文書     宮本神酒男

ヘミス僧院と後方の山 

私も見たいものだ、とヘミス僧院の大ラマは言った

 ヘミス僧院から5キロほど登ったところにゴツァン石窟院があった。13世紀に行者ギャルワ・ゴツァンが修行をしたといわれる石窟の庵である。ジャコモは庵を訪ねたあと、見渡すかぎりに広がる荘厳な谷間と西チベットに連なる万年雪に見とれるうち、道に迷ってしまった。なんとか僧院に戻ってくると、僧侶たちがクスクス笑っている。帰るなりジャコモがいきなりイッサ文書について聞いたからだ。

「その古文書というのは作り物ですよ。若い人から年寄りまで、いろんな人が来ては文書についてたずねていきました。ほとんどがアメリカ人ですが」と僧侶は言う。

 それから彼らはジャコモを慰めるかのように「でもイタリア人ははじめてですね」と付け加えた。

 アメリカ人の多くは手にエリザベス・プロフェットの本を握りしめていた。その本にはノトヴィッチやその後継者たちの話が載っていた。興味を持った人々が来ること自体は悪くなかった。僧院はいつも財政難に苦しんでいるので、お金を落としていってくれるのはありがたかった。しかし問題もあった。

「彼らは関係者以外立ち入り禁止のエリアにずかずかと入ってきて、あちこちひっくりかえしてイッサ文書を探すんです。だからわれわれはいつも彼らを監視しなければなりません。数日前はドイツ人カップルを捕まえましたよ。住持の部屋に忍び込んだのです。先週は、厨房に入った者を捕えたらイギリス人の女性でした」

 じつはゾンナンと呼ばれる宝庫があり、貴重な文書もそこにあったが、そのことを外部の者に教えることはなかった。

 ジャコモは大ラマであるドゥンセ・リンポチェに謁見する約束を取り付けることができた。朝7時、わずか5分と限られたものではあったが、イッサ文書についてたずねるには十分な時間だろう。リンポチェは、ダライラマ、パンチェン・ラマ、カルマパにつぐ高位のラマである。

「ここには何もないんだよ」と翌朝リンポチェは言った。

「あれはお話にすぎないんだよ。もしノトヴィッチが見たという文書があるなら、どうしてわれわれが隠す必要がある? ノトヴィッチとアベーダナンダはそれを見て書き写したと主張しているようだが、彼らはウソをついてお金をもうけたのさ。何千人もの学者の口に彼らの名が語られることになったのだからね。そうでなければ、彼らの名など忘れ去られていただろう。ということはつまり、彼らが話を作ったということなのだ。ここには何もないよ。せっかく来ていただいたのに、幻滅を心に抱いて、空手で帰らなければならないのには同情するよ。だがあなたは最初じゃないし、最後でもない。もし私に疑念を抱くなら、私が許可を与えよう。僧院のどこでも好きに探すといい。文書を見つけたら私のところへ持ってきてくれ。私も見たいからね」


 以上は長々と引用(拙訳)したが、アンジェル・パラティコの小説『カルマ・キラー』(2009)の一節である。小説とはいえ、ほぼ実際にあったこと、あるいはあってもおかしくないことが書かれている。ある種のロマンを求めて、秘密の文書が隠されているという噂を聞いた数限りない旅行者や研究者がヘミス僧院を訪ねてきたのだ。

とても不思議なことに、イッサ文書はあらわれたり消えたりした。文書を含む『イエス・キリストの知られざる生涯』がフランス語で出版されたのは1894年のことだった。その直後にマックス・ミュラーをはじめとする歴史学者や文献学者、聖書学者らに信憑性に問題ありとして一斉射撃を浴びたが、なんとなく結論が出ないまま話題はフェイドアウトしていきそうだった。ノトヴィッチ自身も帰国後シベリア流刑の憂き目にあい、そのあとロシアのボリシェビキ革命に巻き込まれたのか、消息不明になってしまっていた。

 そんなおり、1922年、スワミ・アベーダナンダがヘミス僧院を訪ねた。



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