アベーダナンダ、イエスについて語る
パラマハンサ・ヨガナンダやその師であるユクテスワル・ギリなどイエスをすぐれたヨーギ(ヨガ行者)として評価するヨーギがいるが、アベーダナンダもその系譜に名を連ねる。彼のエッセイ『キリストはヨーギか?』を見てみよう。
キリストがヨーギであるかどうかを考える前に、われわれはまず人がヨーギと呼ばれるために、いかに彼が霊性にすぐれ、尊いかを理解しなければならない。
真のヨーギは純粋で、汚れなく、無謬で、自己犠牲的で、己に打ち勝つことが必要とされる。謙遜、質素、寛容、高潔、意志の固さが彼の持ち分である。真のヨーギの心は対象の感覚、快楽の感覚に捉われてはならない。
彼は自己本位、プライド、虚栄心、現世的な欲望から自由でなければならない。現象世界がはかないことを理解し、悲惨、苦悩、悲しみ、現世の存在を苦しめる病気などを見つめ、つかの間の快楽しか生み出さない物事への執着を断ち切らなくてはならない。
真のヨーギはいかなる家族関係にも捉われない。これが自分の妻だとか子供だとか主張することはない。
むしろあらゆる魂は永遠の至福であり、神聖なる家族に属するので、すべての家族や現世的な関係に奉仕し、絶対的な自由を得ることができるのだ。
真のヨーギはどんな不快な目にあったとしても、楽しいときとおなじように平静を保つことができなくてはならない。
真のヨーギはすべての生き物のなかに神聖なるものを見なくてはならない。そして彼はすべての人間を同等に見なくてはならない。彼はまた通常の意味において友も敵も作ってはならない。
このようにアベーダナンダは綿々と「真のヨーギ」の定義を列挙していく。そして二千年前ガリラヤで真理を説いた「人の子」はまさにヨーギであるという結論にいたる。そしてヨーギ・イエスの役割を規定する。
彼はすべての人生と時間を費やして絶対的真実を究め、神の意識を得なければならない。それによって彼は人類の無私の救済者となり、世界の偉大なる精神的リーダーとならなければならない。
そしてアベーダナンダはインドこそ真のヨーギが生まれ出る地だと強調する。
インドは、修行の実践だけでなく、修行法が見られる唯一の国である。それによって初心者はキリスト道や精神の高み、神の啓示を得ることができるのだ。ナザレのイエスはこうして完全なる霊的存在としてその身を世界に示したのである。
そしてアベーダナンダは結論を導きだす。
イエスは偉大なヨーギである。なぜなら彼は現象世界の移ろいやすさ、はかなさを認識し、現実と非現実を識別し、現世の快楽や肉体の安楽を捨て去ったからである。ヨーギとして彼は隠遁生活を送り、現世の友人や親類との関係を断ち切り、家を捨て、所持品を持たなかった。
このようにアベーダナンダのエッセイを読めば読むほど、イエスがインドに来てヨーガを学び修行をしたと彼が信じていたことがわかってくる。しかし慎重に言葉を選び、具体的にそのことを主張することはなかった。歴史的事実など、彼にとってはどうでもよかったのである。
マグダラのマリアはイエスの妻であり、ふたりのあいだには子もあった、という最近の俗説には、バチカンと同様彼も賛成できなかっただろう。当時のユダヤ人社会においては精神的指導者といえども結婚するのが普通だったとか、マグダラのマリアは十二使徒以上にイエスに好まれていたとか、そういった類の話はアベーダナンダには興味なかっただろう。
イエスが人類の救済者であるなら、インドに来て精神の高みにいたるための修練をしたはずだという考え方のほうが彼にはしっくりきたのである。
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