神秘主義者のイッサ伝             宮本神酒男 

 神秘主義は神秘主義を知る。

神秘主義画家、詩人のロシア人ニコライ・リョーリフ (レーリヒ 18741947)は、アジアの心臓部を何度も旅しながら、いたるところに神秘主義のにおいを嗅ぎ取っていた。そんなリョーリフ・センサーに、イッサ伝説がかからないわけがなかった。

 リョーリフについて簡単に説明したい。いや、本当は簡単にすませたくはないのだが。
 この芸術家は高度な学識を備えながら、芸術において天才ぶりを発揮し、なおかつノーベル平和賞に二度もノミネートされるほどの平和夢想家でもあった。
 音楽史においてはストラヴィンスキーの「春の祭典」の画期的な舞台を手掛けたことで知られる。
 また神智学協会に属したこともあるオカルティストでもあり、そのためか親交のあった米国副大統領のウォーレスは大統領候補からはずれてしまったという。渡米後に彼はイェレナ夫人とともにアグニ・ヨーガ協会を設立した。
 息子のひとりジョージ(ゲオルグあるいはユーリ)はチベット学者として知られ、チベット史『青史』の英訳はチベット研究者ならだれもが読んでいる古典だ。もうひとりの息子スヴャトスラフは画家である。父親の絵と比較すると、大胆さには欠けるが躍動感があり、色使いがよく精緻である。

私はインド北部クル谷のナガルにある庭に花の咲き乱れた記念館(もとの住まい)をはじめて訪ねたとき、その作品にすっかり魅了されてしまった。彼が夢の探求家であり、夢を追い求めることに何ら躊躇することがないのを感じ取った。

 リョーリフが生涯をかけて探したのは、シャンバラだった。シャンバラ伝説を西側諸国に知らしめたのは、彼の功績である。聖なる楽園シャンバラはジェームス・ヒルトン『失われた地平線』に描かれたシャングリラとなり、西欧人の心の中に理想郷の代名詞として永遠に根を下ろすことになった。

 リョーリフは『アルタイ・ヒマラヤ 旅日記』の「ラマユル・ヘミス 1925」の条でイッサ伝説について言及している。

 たった一日の間に三つのイエス伝説を知ることになった。
 あるヒンドゥー教徒が私に言った。

「ラダックのある官吏から聞いたのですが、ヘミス僧院の元住持によると、レーに小さな池があり、木が立っていて、その横でイエスが教えを説いたそうです」(これは池と木の挿話の新しいバージョンだ)

宣教師は言った。

「ヘミス僧院に何か月も滞在したポーランド人がナンセンスなものを捏造したそうです」(それはほかのバージョンや証拠と一致するかもしれないので、なぜ捏造したか聞くべきなのに)

 もうひとりの宣教師が言う。

「それはネストリウス派(景教)の伝説ではないでしょうか? ネストリウス派の伝説や本当の話はたくさんあるのです。でも宣教師はそれについて何も知らないですからね」

 この話題が論じられる。そして徐々に外部に漏れてしまう。肝要なのは、伝説の意味するところが深いこと。それがラマにとってもすばらしい意味があること。東洋全体で言えることだ。

 善良で感性あるヒンドゥー教がイッサの生涯の経典について意味深げに語る。

「どうして人はイエスがパレスチナにいないとき、エジプトに行ったと言いたがるのでしょうか。イエスは若いときずっと勉強していたはずです。彼がどのように学んだかは、のちの彼の説教を聞けばわかるはずです。説教は元々どこから来たのでしょうか。エジプト人でしょうか。どうして人はインドの仏教だと考えないのでしょうか。イッサが隊商とともにインドへ行ったこと、いまチベットと呼ばれる地域へ行ったことをどうしたら否定することができるでしょうか」

 インドの数々の教えははるか遠くにまで轟いている。ティアナのアポロニウスの生涯を思い起こそう。彼はヒンドゥーの賢者を訪ねたのだ。

 ほかの話者はシリアで発見された石碑について語った。それには政府の敵としてイエスの崇拝者を取り締まるための布告が記されていた。この考古学的発見は、教師イエスの歴史性を否定する人々には都合の悪いものだった。それにカタコームで発見された初期キリスト教徒のコインを彼らはどう説明するのだろうか。そして初期のカタコームの存在も。認めたくないものにたいし、彼らはばかにした顔で否定する。しかしそのとき知識は神学校のスコラ哲学となり、中傷は芸術の域に達するのだ。いったいどうしたら東洋全体にあたらしい捏造が行きわたるだろうか。そしてどこにパーリ語やチベット語で論文が書ける学者がいるだろうか。ひとりとしてわれわれは知らないのだ。

 話は前後するが、おなじ『アルタイ・ヒマラヤ 旅日記』の「ラダック 1926」の条で、リョーリフはイエスのインド伝説ならびにイッサ文書に言及している。

 キリストの二度目のエジプト行については、曖昧ながらもしばしば語られてきた。それなのにエジプトのあとインドに行ったという説は成り立たないだろうか。アジアにおけるキリスト伝説を疑う人々は、ネストリウス派の影響をご存じないのだろう。古代において彼らがどれほど多くの外典的伝説を広めてきたか、どれだけ外典的伝説に真実が隠されてきたかを理解していないのだ。

 多くの人はノトヴィッチの本のなかに述べられていることを覚えているだろう。しかし発見されていないこともまだあるのだ。それはどれもイッサの伝説である。地元の人々は出版された本のことは知らないが、イッサのことを尊敬をこめて語る。またイスラム教徒やヒンドゥー教徒、仏教徒とイッサの関係を知って人は驚くかもしれない。

 このあとリョーリフはイッサ文書から引用しているが、大半は第1章の「イッサ伝(抄訳)」とほぼ同じなので、重複分はここでは省略したい。

 しかしノトヴィッチのイッサ伝にはないエピソードをリョーリフは紹介している。

 ラサ近くに豊富な経典を有する寺があった。イエス自身と経典は関係があった。東洋の偉大な聖人Meng-ste(孟子?)はその寺にいた。

 最終的にイエスは山の峠に達し、主要都市のラダック・レーで僧侶や下層の人々から歓迎を受けた。イエスは僧院のなかや市場で教えを説いた。どこにでもイエスが来るところには素朴な人々が集まり、彼は説教した。

 そこから遠くないところにひとりの女がいた。彼女死んだばかりの息子をイエスのもとへ運んだ。群衆の前でイエスが遺体に手をかざすと、病は治り、息子は起き上がった。それで多くの人も遺体を運んでくると、イエスは手をかざし、治した。

 ラダック人のなかにイエスは長く滞在し、教えを説いた。人々も彼のことを愛した。出発の時がやってくると、人々は子供のように嘆き悲しんだ。

 リョーリフの考えでは、ヘミス僧院に伝わるとされるイッサ文書や各地に伝わるイッサ(イエス)の伝説は、ネストリウス派(景教)が広げたものである。現在の宣教師(とくにモラビア派)さえこうした文書の存在を知らなかったのは、捏造でないとすれば、流布した時期がずっと以前だからだ。景教が中央アジアからモンゴル、さらに中国全土に伝播し、日本にまでやってきたかもしれないと言われるのは中国が唐の時代である。

 とすると、イッサ文書を書いたのは景教の伝道師たちであり、仏典の衣を着てキリスト教を広めようとしたという可能性は捨てきれない。もっとも文書の内容は矛盾点だらけでそんなに古い時代に編纂されたものとは思えないが。

 ここで思い出すのは京都・西本願寺に所蔵されているという『世尊布施論』だ。これは仏典ではなく、ケン・ジョセフ氏によると景教の聖書の一部(「山上の垂訓」)だという。しかしもしこれが聖書の漢訳なら、奈良・平安朝期に日本人僧が中国で入手したか、景教の僧が日本にやってきたということになる。山上の垂訓なら外典ではなく正典なので、景教かどうかは判定しがたい。仏教僧が紛れ込んだ聖書に気づかなかったか、あるいは景教の僧たちが仏教徒を取り込んで信者を増やそうとしたのだろうか。

 どうしても気になってしまうのは、上述の宣教師が語ったヘミス僧院に長期滞在し偽書を捏造したポーランド人の話だ。イッサ文書はこのポーランド人の捏造なのだろうか。あるいはポーランド人というのは間違いでノトヴィッチのことなのだろうか。

 

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