カスパリ夫人の証言                 宮本神酒男

 レマン湖を見下ろすアルプスの山あいの美しい村、シャトーデー。1899年、豊かな家(父親は植物学者兼薬剤師だった)に生まれたエリザベトは恵まれた自然のなかですくすくと育ち、平凡だが幸せな一生を送るはずだった。結核性足関節炎という難病にかかるまでは。

 エリザベトは15年もベッドの上で過ごすことになった。ほとんどの医者が足の切断を勧めるなか、「太陽の医師」と呼ばれる変わった医者だけが治療に確信を持っていた。彼は太陽のパワーを信じ、足の日光浴を中心とした民間療法で治そうとした。驚くべきことにこの療法が功を奏してエリザベトは歩けるようになった。

 家族は足を使わなくてもできることとして、エリザベトにピアノを習わせた。彼女はすぐれたピアニストになるとともに、子供の教育に興味を持ち、大学へ進んで音楽教育を学んだ。卒業後、子供のための音楽学校をつくり、彼女の考案した音楽教育を実践した。そして1929年、年の離れたシャルル・カスパリという名の男性と結婚した。

 転機は1937年に訪れた。西欧におけるゾロアスター教運動を率いていたクラレンス・ガスク夫人と会ったのである。エリザベトは夫人の英国北部の講演旅行にピアニストとして参加する。

 その年の12月、カスパリ夫妻はガスク夫人から招待され、チベット巡礼団に参加することになった。1938年春、マドラス、ボンベイ、ニューデリーを経たガスク夫人はカシミールに入り、バンガローを借りている。

 1939年春、巡礼団のキャラバンはカシミールを出発した。駄馬だけで112頭という大所帯である。

 ヘミス僧院で彼らは書庫担当の僧侶から三部の経典を見せてもらう。これがどうやらノトヴィッチが見たイッサ文書だったのである。

「あなたがたのイエスはここにいたと、この経典に記されています」

 と書庫担当ラマは言った。惜しむらくはこの経典が翻訳されることはなかったが、イッサ文書であるのはまちがいないだろう。

 興味深いのは、イッサ文書が偽書かどうかはともかく、それが実際にヘミス僧院に所蔵され、ラマに管理されていたということだ。エリザベト・カスパリはこのあたりのことについてはよく知らなかったはずで、イエスがラダックに来たと聞いて驚いたにちがいない。ノトヴィッチもアベーダナンダも、レーリヒもこの文書を見たのであり、だれも嘘をついていないことがわかった。現在のヘミス僧院のラマはその存在を否定するかもしれないけれど、長い年月の間(ノトヴィッチとカスパリ夫人との間には52年の月日が流れた)ラマは嬉々として西洋人にイッサ文書を見せていたのだ。もしそうしてキリスト教徒にたいし、仏教への興味を呼び起こしているのだとすれば、S・アチャリアが主張するように仏教プロパガンダということなのかもしれない。

 なぜカスパリ夫妻であり、ガスク夫人なのか。エリザベス・クレア・プロフェットは「ふたりは選ばれたのだ」と述べる。ヘミス僧院の僧侶にとって、カイラス山へ巡礼しようとしているこのグループは、よくある西欧の探検隊や冒険好きの西欧人とは一線を画していた。ブッダもイエスも究極的にはおなじだという考えを理解してくれると思ったのかもしれない。

 ちょうどヘミス僧院にいる頃に、第二次世界大戦が勃発したというニュースを短波ラジオによって知った。カスパリ夫妻は知人のいるダージリンに逃れた。そのあとヘミス僧院へ行く前に知り合ったイタリア人のマリア・モンテッソーリのもとへ行き、1941年から42年にかけて彼女の講義を受講した。マリア・モンテッソーリ(18701952)は、モンテッソーリ教育法を編み出した偉大な教育者でありフェミニストだった。戦時中、ムッソリーニと敵対していたため、彼女はインドに滞在していたのだ。1942年から45年まで、モンテッソーリとカスパリはモンテッソーリ学校を開いた。

 カスパリ夫妻は戦後アメリカへ移住し、50年代にはミズーリ州で閉鎖されていたモンテッソーリ学校を復活した。その後は全米各地やヨーロッパでモンテッソーリ教育法を指導した。エリザベト・カスパリは2002年に長寿を全うし、永眠した。

 

⇒ つぎ