ウソ、ウソ、それはまったくのウソです
1894年、イッサ文書を含む『イッサの知られざる生涯』が「La vie
inconnue de Jesus Christ」としてフランス語で刊行されて以来、さまざまな分野からバッシングを受けてきた。それはフランス語のほか英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語に翻訳され、反響は世界中に広がった。
イッサ文書はマックス・ミュラーから最近のバート・D・アーマンにいたるまで、文献学者やキリスト教学者の攻撃のターゲットになってきた。著者のノトヴィッチはペテン師扱いされ、文書は彼の捏造の所産とされた。そこまで完璧に否定されながらも、不思議と命脈は保ってきた。
バッシングについて最初に記したのはエドガー・J・グッドスピードの『有名な聖書の偽書』(元のタイトルは「現代の外典」1956)だった。グッドスピードは16の偽書を挙げているが、その最初を飾るのがこの『イッサの知られざる生涯』だった。
出版直後、雑誌「19世紀」上でマックス・ミュラーを中心にしばらくのあいだ論議が交わされたが、しばらくして熱は冷め、世の中から忘れ去られてしまった。ブームが再燃したのは、1926年、ニューヨークの出版社が改訂版を出版したからだった。
もう一度、最初に狼煙をあげたミュラーの批判の骨子を整理しよう。ミュラーは「19世紀」誌上でイッサの生涯がチベットのタンジュル、カンジュルのリストに含まれていないことを指摘した。タンジュル、カンジュルはいわば大蔵経にあたり、前者はブッダのことば(経)、後者は論、律に相当すると考えればいい。
ノトヴィッチはロンドン版(1895)の前書きでこれにたいし反論を試みている。
「タンジュルにもカンジュルにもたしかにありません。それらは複数の写本のなかに分散してあるからです。題目もありません」
ミュラーはほかにも矛盾点を指摘する。
「このイエス(イッサ)の生涯は、イエスの磔刑のあとすぐにインドへやってきたユダヤ人商人が語ったものだとされています」
だがほとんどありえない偶然が重なっていると彼は言う。
「何百万人ものインド人のなかからサンスクリット語とパーリ語を学んでいる学生であるイエスを知っているインド人と会う、そんなことがありえるでしょうか。そしてインドで学生であるイッサを知っている人々が、イッサがピラトのもとで処刑された人と同一人物であるとどうしてわかるのでしょうか」
また、ミュラーはもうひとつの可能性、すなわち僧院の僧たちがノトヴィッチをだました可能性を示唆する。たしかにノトヴィッチはチベット語が読めなかったのだから、経典がイッサと関係ないものであったとしてもわからなかっただろう。
しかしミュラーはノトヴィッチ自身の捏造だという確信を持っていた。というのもある英国人女性から1894年6月29日付の手紙を受け取っていたからだ。
「昨日我々はヘミス大僧院を訪ねました。とても大きな仏教僧院で、800人ものラマを擁しています。僧院に入る許可を得ることができなかったロシア人の話をお聞きになったことがありますでしょうか。その人は足を骨折したことから、うまく僧院に入ることができたというのです。その目的は僧院が所蔵するキリストの仏教徒としての生涯とやらを写し取ることだったといいます。彼はそのようにしてそれをもとにした本をフランス語で出版しました。でもこの話は全部ウソです。ロシア人はだれもここに来ていません。この50年というもの、足を骨折して来た人などいないのです。キリストの生涯などという本は存在しないのです」
1895年6月、アグラ大学の教授J・アーチボルド・ダグラスの通信が雑誌「19世紀」に掲載された。彼はゲストとしてヘミス僧院に滞在していたというのである。彼によればシンド谷の動物はノトヴィッチが描写するほどには絵にならないという。また記憶するかぎり足の骨を折ってひきずって歩く外国人は見かけなかったという。しかし前述のように、レーの病院でノトヴィッチという名のロシア人紳士が歯の治療を受けたのはまちがいないと証言した。ノトヴィッチを批判するはずの記事だったが、逆に彼がラダックへ行ったことの傍証となったのである。
しかしそれ以上にノトヴィッチに有利な情報は出てこなかった。ダグラスが会った僧院長によれば、足を骨折した旅行者がヘミス僧院に滞在したという事実はなかった。それにイッサの生涯として知られる経典はチベットには存在しないと断言した。ノトヴィッチの本を読み上げると、僧院長(ケンポ、住持)は厳として言い放った。
「ウソ、ウソ、それはまったくのウソです」
また僧院長はノトヴィッチが彼に腕時計、目覚まし時計、温度計をプレゼントしたと書いていることを知り、憤然とした。彼は温度計が何かさえ知らなかったのだ。
以上のことから、グッドスピードはイッサ文書がフィクションにほかならない、と結論づけた。
しかしながらこれで一件落着というわけにはいかない。アベーダナンダやニコライ・リョーリフが見たという文書は何だったのか。あとで触れるように、リチャード・ボックのドキュメンタリー・フィルムのなかで、ヘミス僧院の僧侶が「私はたしかにイッサ文書を見た」と証言しているのだ。イッサ文書が偽書であることはまちがいないだろう。この偽書をつくったのがノトヴィッチ本人なのか、国家がらみなのか、キリスト教なのか、ヘミス僧院を含む仏教(とくにチベット仏教)なのか、という点が重要なのである。
⇒ノトヴィッチの残像