(2)アポロニオスの漂泊人生
アポロニオス(BC2〜AD102)はイエス・キリストとほぼ同時代の人だった。生地のテュアナはトルコ中央部カッパドキア地方の南部に位置する。あのキノコのような奇岩が押し合いならぶ絶景のカッパドキアに生まれるとは、のちの偉大な魔術師になんとふさわしい人生のはじまりだろうか。
幼い頃から記憶力が抜群によく、姿も美しかった。14歳のとき、学問の中心地であるトルコ南岸のタルソスに送られた。しかしそこでは飽き足らず、彼はアイガイに移動し、そこで哲学を学んだ。アイガイには医学の神アスクレピオスの神殿があり、その司祭たちと懇意になった。またプラトン派、ストア派、逍遥派、エピキュロス派などさまざまな学派の教師がいたが、彼の心を捕えたのはピタゴラス派だった。
彼はピタゴラスにならって清浄な生活を送った。食べ物は地上の生み出したもの、すなわちフルーツと野菜に限った。しかしワインは魂を濁らせ、心を破壊するとして拒んだ。彼は裸足で歩き、髪は伸び放題にまかせ、着るものといえば亜麻布一枚だけだった。すでに隠者のような風体だったのである。
アポロニオスはそんな乞食のような恰好で町から町へと放浪しながら、5年間の沈黙の行をつとめた。これは一種のイニシエーションだった。それから彼はアンティオキアへ移動した。アポロニオスはその後パレスティナの南部へ行き、さまざまな神殿や共同体を訪ね歩いた。
アンティオキアを出発したアポロニオスはニヌス(ニネヴェ)に着き、そこでダミスと会った。ダミスはブッダにおけるアーナンダのような存在で、愛弟子であり、またアポロニウス伝の話者となった。主にダミスのノートをもとにしてピロストラトスはテュアナのアポロニオス伝をまとめたのである。
アポロニオスの本格的な旅がはじまった。ニヌスからバビロンに旅をし、彼はそこに1年と8か月滞在した。その期間中周辺の都市、たとえばメディア国の都エクバタナを訪ねた。バビロニアからインドまでの地名は記されていないが、おそらくカイバル峠を超えてガンダーラの中心地となるタクシラに到達した。それからインダス川のいくつかの支流を渡り、ガンジスの谷に達し、賢者の神殿に4か月ほど滞在した。
R・G・S・ミードによれば、この神殿はネパールにあるという。スワヤンブナートあたりを指しているのだろうか。この近くにある町はパラカという名だという。ミードの推測ではパラカはバーラタ(アーリア人が最初に定住した地域で、のちインドのことを指すようになる)からヒントを得て命名したものというが、根拠のある説とは言い難い。いずれにせよ書き手のピロストラトスにとってインドの地名はなじみがなく、ギリシア風に改変された可能性が高い。
インドでは何人ものイアルカスというギリシア風の名で呼ばれる賢人と会っているが、これもおそらくアルハト(阿羅漢)のことだろうという。アポロニオスの旅の第一の目的は、ギムノソフィスト、すなわち裸の哲学者と会うことだった。
我々は現在インドを旅すれば、無数のサドゥー(行者)といやがおうにも出会うことになる。そのなかにはナガ・サドゥーのような(聖なる灰をのぞけば)一糸身にまとわぬ裸の人々がいるのだ。このギムノソフィストの場合、そこまで厳密に素っ裸というわけではないかもしれないが、二千年前、裸の行者はすでにたくさんいたということだ。おそらく二千年前どころか、数千年前からあまたいたのではなかろうか。
アポロニオスは船に乗ってインドからユーフラテス川の河口に戻る。そしてバビロン、ニヌス、アンティオキア、セレウキア、キプロス、イオニアへと帰路の旅はつづいた。小アジアの町、エフェソス、スミルナ、ペルガムス、トロイなどではゆっくりと過ごした。それから彼はレスボス島へ渡り、アテネに着くとそこに何年も滞在した。彼はヘラスの寺院を訪ね、祭礼の改革をおこない、神官たちを指導した。そしてクレタ島へ行き、ネロ帝の時代のローマにやってきた。
しかし西暦66年、ネロはいかなる哲学者もローマにいてはならないという布告を出し、アポロニオスはスペインにのがれた。ガデス、現在のカディスから上陸したという。しかしスペインにいたのは短期間で、すぐにアフリカに渡り、それからシチリア島に来てしばらく滞在し、いくつかの町や神殿を訪ねた。アポロニオスがギリシアに戻ってきたとき、最初にレスボス島からアテネに渡ったときから4年が経過していた。
アポロニオスは船旅でピラエオスからキオス、ローデス島へと移動し、エジプトのアレクサンドリアに着いた。そこで彼は将来皇帝となるウェスバシアヌス(9−79 在位69−79)と何度も会っている。
彼はナイル川の急流をさかのぼり、エチオピアにたどりついた。彼はここにもギムノソフィスト(裸の哲学者)の共同体があることを発見した。
アレクサンドリアに戻ると、皇帝になったばかりのティトゥス(39−81 在位79−81)から召喚され、タルソスで謁見する。このあとエジプトにもどり、それからフェニキア、キリキア、イオニア、アカイア、イタリアを遍歴したと思われる。
西暦81年、ドミティアヌス(51−96 在位81−96)が帝位につく。アポロニオスはネロの専制政治と共通するものがあるとして皇帝に批判的だったが、果敢にも皇帝に面と向かい合うことにした。
彼はローマに入るとすぐ裁判にかけられたが、無罪が言い渡された。その後ギリシアに戻り、ドミティアヌス帝が死んだときにはイオニアにいた。彼はダミスを使者としてローマに送り、自身は姿を消した。
ミードの推理では、彼がもっとも好きだった場所、すなわち賢者の里へ行ったのではないかということである。しかしインドへ行くにはあまりにも年を取りすぎていただろう。またドミティアヌス帝死去が西暦96年なので、ローマでの裁判は93年頃である。およそ12年間のアポロニオスの軌跡が不明瞭だが、そもそも神話的人物に歴史的事実を求めても限界があるだろう。
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