(3)魔術師アポロニオス             宮本神酒男 

 アポロニオスには宗教改革者、あるいは宗教復興者という側面があった。彼は各地を遍歴しながら、細かくたくさんの神殿を訪れている。たとえばキプロス島に寄ったとき、パポスのアフロディテの神殿を礼拝している。これは石をシンボルとした女神崇拝なのである。石は人間ほどの大きさだが、女神像ではなく、コーンのような形で表面はすべすべしているという。ギリシアのヴィーナス崇拝と同源だろう。

 トロイではアポロニオスはアキレスの墓で一夜を過ごした。英雄アキレスは死後神格化されていたのだろうか。墓で寝て夢の中で死者と会話をするというようなことは、スーフィーなどにも見られる神秘的な技法だ。アキレスは英雄パラメデスの彫像がどこにあるか(エオリア海岸にあるという)を教えたという。パラメデスはカドモスが造ったフェニキア文字を改良したことで知られるトロイ戦争の時代の英雄である。

 ダミスによれば、アポロニオスはインドでパラメデスの生まれ変わりの修行者と会ったという。その若い修行者は学ばずとも文字を書くことができた。

 アポロニオスはこうしてアキレスを祀る神殿を建て、祭礼をおこない、そこにパラメデスの像を置いた。すたれかけていた宗教活動を復活させたのだ。

 レスボス島ではオルフェウス教の神殿を訪ねている。常人の入ることができない内なる神殿、アデュトムにまで入っている。ここでは占いと託宣がおこなわれていた。

 アポロニオスはまたドドナやデルポイの神託所、ポーキスのアバイのアポロ神殿、アムピアラオスの洞窟、トロポニオス、ヘリコンのミューズ神殿などを訪ね、古代の祭礼を復活させている。一方クレタ島に行ったとき、彼はかの迷路を訪れるのを拒絶している。なぜなら古代においてこの迷路で人身御供がおこなわれていたからだ。彼は生贄のかわりに乳香をささげることを提唱している。

 このように、ローマ帝国がのちにキリスト教を国教と定めることがなければ、神殿を建てたり祭礼を復活したりしたアポロニオスは、偉大なる宗教改革者として知られていたにちがいない。

 しかしアポロニオスはむしろ魔術師として記憶されているのだ。

 エフェソスでかつて疫病がはやり、死者がたくさん出たことがあった。群衆は年老いた乞食が発生源だと考え、みなが石を投げつけた。あまりにも多くの石が投げられたので、乞食はうず高く積もった石の下敷きになった。しかしアポロニオスが命じて石を除くと、そこに死んでいたのは乞食の男ではなく狂犬で、その口から泡を吹いていた。

 アポロニオスがローマの町を歩いていると、葬列に出くわした。貴族の若い娘が死んだのだった。彼は棺の上から死者に何か呪文のようなものを唱えると、娘は起き上がって歩き出したという。彼は娘の体から悪霊を追い出したのである。

 のちにアポロニオスは数々の魔術書の著者に仮託され、次第に魔術師のイメージが西欧ではかたまっていった。しかし生贄を嫌い、清浄さを求めるところなどは、魔術師とはおおいに異なっていた。

 ではインドの影響はどの程度受けていただろうか。インドに行ったからなのか、あるいはインドへ行く前から、もしかするとピタゴラス派にインド的要素が入っていたからなのか、インドとの関連はかなり深いレベルにある。アポロニオスは一日三回(夜明け、正午、日暮)瞑想をし、祈りを唱えた。これはインドの影響だろうか。またエジプトやエチオピアにはたくさんの裸の哲学者と呼ばれる修行者がいたが、インド人ではないにしても、すくなくともインドの影響という印象を人々は持っていたようだ。

 同時代のアポロニオスがこれほどにもインドの影響を受け、インドにまで旅をしているのに、イエス・キリストが知らなかったなどということがありえるだろうか。いや、知っているどころか、本人もインドへ行ったのだ。そういう考え方があっても、不思議ではない。


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