裸の哲学者
モンティ・パイソンの伝説的なコメディ映画「ライフ・オブ・ブライアン」(1979)はイエス・キリストの生涯のパロディ映画だが(イエスのパロディでは問題があるのであくまでもブライアンという青年の話ということになっている)、ある意味、真実を追求したとされるメル・ギブソン監督の映画「パッション」(2004)よりもはるかにリアリティを感じさせる作品である。映画の冒頭の「山上の垂訓」を思わせるシーンでは、集まった群衆の後方でブライアンらが説教そっちのけで言い争いにかまけている。彼らの不謹慎な態度はともかく、当時のイエスはこのような群衆を集める人気スターだったのだろう。
私が興味深く思ったのは、つぎのシーンだ。主人公のブライアンがエルサレムの町中を歩いていくと、さまざまなタイプの宗教実践者が道端に並び、自分たちの主張を声高に叫んでいた。そのなかにはインドのサドゥーのような半裸の男がいた。サドゥーのような、というよりサドゥーをモデルとして映画中に配役した宗教者である。二千年前のエルサレムは新興宗派が百花繚乱の状態で、インドの修行者のような人々がたくさん辻説法をしていたのではなかろうか。
すでに述べたように、彼らは裸の哲学者と呼ばれる修行者である。アポロニオス伝をもとに考えると、間接的な影響というより、インドの直接的な影響、あるいは移民したインド人そのものかもしれない。S・アチャリアの考えでは(『神の太陽』)エジプト・アレクサンドリア近くのマリュート湖の湖岸にはインドの裸の哲学者(仏教徒、ジャイナ教徒ら)のコロニーがあった。この地域にはテラペウタイ派が住んでいたので、「テラペウタイ派=裸の哲学者」ということになるのだろうか。
また第3章「アポロニオスの漂泊人生」で述べたように、伝説によればアポロニオスはエチオピアで裸の哲学者と遭遇している。エチオピアには今に至るまでコプト教徒(キリスト教徒)やユダヤ教徒が現存していることを考えると、知的伝統をかなり古くまで遡ることができそうである。
*裸の哲学者(ギムノジウム)という言葉を最初に用いたのは1世紀のプルタークであり、それはアレクサンドロス大王がインドで会った裸の修行者のことを指している。アリアノス(86−160)はそれを踏襲し、『アレクサンドロス大王東征記』のなかでは、大王がタクシラで会った修行者を裸の宗派の哲学者と呼んでいる。
聖アントニオス(251−356)にはじまるとされる砂漠の修道士の伝統も、裸の哲学者に由来するのかもしれない。もっとも、イコン画に描かれる聖アントニオスはきちんと聖衣を着ているのだけれど。
エジプト中央部に生まれた聖アントニオスは、18歳のとき教会内で読まれた福音書を聴いてクリスチャンとなり、36歳のとき砂漠に入って孤高の苦行生活をはじめた。思うに、エジプト人としては初の修行者かもしれないが、インド人の修行者は案外と早くからエジプトにやってきていて、人々はその姿を目にする機会も多かったのではなかろうか。
そうやって考えると、イエスの「荒野(あらの)の誘惑」にも違った解釈がなされるかもしれない。ブッダは修行中に煩悩の化身である悪魔マーラに悩まされるが、最後には打ち克つことができた。イエスもまた「荒野を40日の間、御霊(みたま)にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた」。字句をそのまま読めば、イエスは狂人のように荒野をさまよったかのようだが、実際は裸の哲学者か砂漠の修行者のように荒野で瞑想をしていたのかもしれない。悪魔に勝ったあと、イエスはまるで悟りを開いたかのように「山上の垂訓」を説く。イエスが話した内容はブッダの思想とはかならずしも一致しないが、ブッダの行動がイエスのロールモデルとなった可能性もあるだろう。
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