第4章 聖トマス、インドへ行く
トマス伝説
トマスといえば聖書にその記述が少なく、十二使徒のなかでももっとも地味な存在なのに、インドのクリスチャンが多い地域では英雄のごとき聖人である。これはどうしてだろうか。
伝説によれば、トマスはイエスによってインドに派遣され、福音を広めたのだという。西暦52年、トマスは現在のケララ州に上陸し、シリア正教会の基礎を創設するが、西暦72年に狂信的なバラモンによって殺され、殉教者となった。
イエスのインド修行伝説を語るにおいて、トマス伝説を無視することはできない。聖トマスがインドに来たという伝説があったからこそ、イエスのインド修行伝説もまた生まれたのだ。
エルサレムではイエスのもとに十二使徒が集まり、それぞれに布教の担当区域が割り当てられた。キリスト教の登場が画期的であったのは、布教に力点が置かれたことだった。真偽のほどはともかく、イエスと十二使徒の時代から布教の戦略が練られていたとしても不思議ではない。
布教区域の割り当て(表はM・M・ニナンによる)
◇シモン・ペトロ パルティア(ポントス、ガラテヤ、カッパドキア、アジア、ビテュニア) ブリテン
◇アンデレ カッパドキア ガラテヤ ビテュニア スキタイ
◇熱心党のシモン 北アフリカ ブリテン
◇アルファイの子ヤコブ スペイン
◇ディデュモスのトマス パルティア メディア ペルシア 北西インド
◇バルトロマイ パルティア メディア ペルシア 北西インド
◇ユダ アッシリア メソポタミア
◇フィリポ スキタイ 小アジア北部
◇マタイ パルティア ヒンドゥークシ
◇ヨハネ ガリア(フランス)
◇ヤコブ(ヨハネの兄弟) ヘロデ王により斬首
◇マティア ダキア(ルーマニア) マケドニア
◇パウロ 小アジア南部 英国諸島
このなかでももっとも人口に膾炙しているのがトマスのインド布教である。それはエデッサのグノーシス主義者バルダイサン(154−222)によって書かれたとされる新約聖書外典『トマス行伝』がよく知られているからだ。
この図にあるように、インドで布教する前、聖トマスはパルティアなどで布教活動をしていた。
1656年、聖トマスについて調査するためにローマ法王はカルメル修道会のヴィンチェンゾ・マリア神父をインドへ派遣した。マリア神父によれば、トマスのミッションはシリアからメソポタミアにかけての地域ではじまっていた。そしてその後はるか東の中国西安にまで足を伸ばしたという。それから聖トマスはふたたび中東にもどる。その後なんとブラジルへ行き、また戻ってエチオピアを訪ねたあと、アラビア半島の沖合にあるソコトラ島(現イエメン領)に渡った。インド南部にたどりつくのはようやくそのあとのことだった。まずマラバル海岸で福音を伝え、コロマンデル海岸(マドラスとマイラプール)へ移動したあと彼は殉教者となった。
この最初に行ったシリアからメソポタミアにかけての地域とは、パルティア国の領土だった。そこでトマスはパルティア人、メディア人、(アフガニスタン北部の)バクトリア人、(カスピ海の)ヒュルカニア人、(スリランカの)タプロバニア人などのあいだでキリスト教を説いたのだという。
およそ真実味が欠けてはいるものの、ヴィンチェンゾ・マリア神父は広範囲にわたって神話や伝説を収集したのだろう。実際に使徒トマスがインドをはじめとする世界各地を遍歴するというようなことがなかったとしても、これだけの神話・伝説が生まれるための何かがあったのはまちがいない。
トマスが布教活動の拠点としたシリアのエデッサ国(現在のトルコ領ウルファ)は、アブガル王(13−50)とイエスの往復書簡で知られる。しかし実際にトマスの使者アッダイと会ってキリスト教徒となったとされるアブガル王は、アブガル9世だったようだ。エデッサの王が改宗するのはトマスよりずっとあと、百数十年後のことなのである。その後エデッサは東方諸教会の中心地となっていく。東方諸教会に分類されるインドのシリア正教会(マランカラ・シリア正教会とヤコブ派シリア教会)と強いつながりがあるのは当然のことだった。
トマス伝説は、キリスト教のなかでも、ネストリウス派やシリア正教を含む東方諸教会の伝播と関係があるようだ。
トマスがパルティア国内で布教活動をはじめたのは西暦30年頃だとされ、インド南部に上陸したのは西暦52年である。ケララの伝承によれば、このずっと前、西暦40年頃にガンダーラの中心地タクシラにトマスは来ている。ここで『トマス行伝』に登場するインド・パルティア国の建設者グンダファル王(ゴンドファルネス)と会っているのだ。王の話す言語はギリシア語だったという。
M・M・ニナンによれば、西暦46年頃には、テュアナのアポロニオスもグンダファル王と会っている。タクシラはインド北部のキリスト教布教の中心地となるが、クシャーナ朝になると早くも潰えてしまった。カニシカ王の時代(2世紀)、ガンダーラ仏教が隆盛を見るのである。
インド南部に行く前、船が難破してしまったのか、聖トマスは竜血樹で知られるソコトラ島に漂着する。上述のようにソコトラ島は現在イエメン領である。トマス伝説の真偽はともかく、ソコトラ島の住人はキリスト教徒だった。ソコトラ(Socotra)という島の名はどうやら祝福の島を意味するサンスクリット語のドゥヴィパ・スカダラ(dvipa
sukhadhara)からきているらしい。
10世紀、アラブの地理学者アブ・ザイード・ハッサンは島の住人はネストリウス派だと記した。
1294年にソコトラ島に立ち寄ったマルコ・ポーロは、住人がキリスト教徒だったと証言している。
1435年にソコトラ島にやってきたニコロ・コンティは、「島はアロエを産し、住人はネストリウス派のクリスチャン」と記した。
フランシスコ・ザビエルは1523年にこの島を訪ね、住人が「名ばかりのクリスチャン」であることを指摘した。彼らは洗礼の仕方さえ知らなかったので、ザビエル自身が子供たちに洗礼を施したという。
しかし1683年にヴィンチェンゾ・マリア神父は「キリスト教徒は絶えてしまった」と報告している。
千数百年も守られてきたキリスト教の灯は永遠に消えてしまったのだ。
西暦52年、トマスが乗った船は現在のケララ州コドゥンガルール(コーチの北)に着いた。伝承によれば、現代まで残るインドのキリスト教はこの時期にまでさかのぼることができるのである。
しかしインドのトマス派キリスト教徒が伝えてきた『トマス行伝』の舞台は南インドではなく、北西部の(現在はパキスタンの)タクシラだったようだ。ただし文中では国の都であることをほのめかすだけで、場所を特定しているわけではない。『トマス行伝』は際立ったエピソード満載の魅力的な物語であり、キリスト教の教義のようなものはあまり感じさせない。一種の大衆小説のようなものと考えればいいのかもしれない。
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