トマス行伝
その『トマス行伝』の骨子を以下に示したい。
1 トマス、インドへ行く
長い間架空の人物と考えられてきたグンダファル王(ゴンドファルネス)は、現在ではイエス磔刑と同時期のインド・パルティア国の王とされる。
エルサレムで使徒たちが集まり、世界各地に伝道すべくくじによって割り当てが決められた。トマスはインド担当になったが、気が進まず、病弱を理由に断ろうとした。しかし復活したイエスは、双子の兄弟である大工のトマスを奴隷として、グンダファル王の使者でもあった商人のハバン(アッバネス)に売ったのである。
インドに着いたトマスは、主人(商人ハバン)とともに国王の娘の結婚式の宴に参加した。彼は飲食を固辞し、彼のために踊ってくれた愛らしい笛吹き女のほうを見ないようにした。そんなトマスを見て酌とりは平手打ちをくらわせた。
トマスはしかし踊り子と神を礼賛する賛歌をうたった。そして酌とりの死を予言した。まもなくして井戸で水を汲んでいるとき、酌とりはライオンに襲われ、殺された。笛吹き女は笛を壊し、トマスの最初の弟子となった。
国王はこの奇跡の話を聞き、ひとり娘のため、トマスに祈るよう頼んだ。トマスが主イエスにたいして祈ると、トマスとよく似たイエスの姿があらわれた。イエスは夫婦の正しいありかたを説いた。感銘を受けた新婚夫婦はイエスの教えを受け入れた。
2 グンダファル王の宮殿
トマスは国王に謁見した。国王はトマスの大工としての能力を認め、新しい宮殿を建てるよう要請した。そのためにもらったお金を、しかしトマスは貧しい人や病人に分け与えたしまった。国王はトマスと商人を牢獄に入れ、死刑を命じた。
その頃国王の兄弟ガドが病気になり、死んだ。天使はガドを天国に運び、立派な宮殿を見せた。それは国王のためにトマスが建てた宮殿だという。ガドは地上に戻り、天国の宮殿のことを国王に話した。真実のことを知った国王は、トマスと商人を釈放し、さらにガドとともにトマスの弟子となった。
3 トマスと巨大な蛇
路上でトマスは美青年の遺体と出くわした。近くの穴から大きな黒い蛇(あるいはドラゴン)があらわれて言うには、蛇が青年を殺したのだという。蛇が好きだった美しい娘と青年が関係をもつのを見て嫉妬したのである。
蛇はトマスがイエスの双子の兄弟であることを知っていたし、地上に君臨する者であることも知っていた。そして父(創造主)が蛇を通してイブに話しかけたことも知っていた。カインをそそのかしてアベルを殺したのも蛇だった。彼はファラオの心を冷酷にし、イスラエル人に荒野で罪を犯させ、またイスカリオトのユダにイエスを裏切らせたことを自慢した。
4 トマスとロバ
若いロバがトマスに近づいて「キリストの双子よ」と話しかけてきた。そして乗って市街地へ行くことをすすめた。
トマスはロバに、もともと何だったかをたずねた。ロバが答えて言うには、預言者バラムにつかえたまさにそのロバであったということである。またイエスが乗ってエルサレムに入ったそのロバであったと。
トマスはロバに乗るのを断ったが、どうしてもと請われて乗っていくことにした。見物人がたくさん集まってきた。門までたどりつくとロバは倒れ、息を引き取った。群衆はトマスに動物を生き返らせるのを願ったが、トマスはそうはしなかった。十分に奇跡を起こしたと感じたからである。
5 悪魔の恋人
トマスが群衆とともに市街地に入ると、美しい女が近づいてきて、「何年も悪魔に苛まれている」と訴えた。夢の中に若い男があらわれ、現在にいたるまで間違った関係をつづけてきたというのだ。
怒ったトマスは悪魔に出てくるよう命じた。トマスと女だけがこの悪魔を見ることができた。人々は姿を見ることはできなかったが、叫び声は聞こえた。
「使徒さまよ、汝といったいどんな関係があるというのか。なぜわれらの力を削ごうとするのか」と泣き崩れた。
悪魔はそうして消え去り、火と煙だけが残った。群衆はただ驚いてそれを見ていた。
6 誤って少女を殺した青年
聖餐を口にしようとしたとき、手が萎えた青年がいた。彼は愛していた少女を殺してしまったと告白した。彼はトマスの説教を聞いたあと、彼女との性的関係を抑制し、霊的な婚姻関係を望んだ。ところが彼女はそれを拒んだ。ほかの男と性的関係をもつことを恐れた青年は彼女を殺したのである。トマスは青年を非難し、聖水で身を清めるよう命じ、少女の遺体が安置された宿に向かった。トマスが祈りをあげ、青年が少女の手を取ると、彼女は蘇った。彼女は地獄でのことを証言した。*地獄の描写はかなり細かい。
7 トマスとシフル将軍
マツダイ王の将軍シフルが妻と娘を助けてくれるようトマスに頼んだ。彼らは悪魔に苦しめられ、人前で素っ裸になることもあった。この夢魔によって3年間、彼らは食べることも眠ることもできなかった。トマスは将軍にイエスへの信仰を求め、それから彼女たちを助けることを約束した。
8 悪魔祓いと野生のロバ
トマスはシフル将軍とともに馬車に乗って将軍の町をめざした。しかししばらく行くと獣たちが疲れ果ててしまったので、将軍は近くに群れていた野生のロバのなかから4頭を連れてきた。町に着くと、トマスは一頭の野ロバに命じてシフルの家から悪魔を連れてこさせた。ゾンビのような状態の女ふたりが出てきて、トマスにたいし悪態をついた。トマスはイエスをほめたたえ、それから祈りの言葉をつぶやいた。するとただちに女たちの魂はいやされ、元の状態にもどった。トマスは野ロバたちを元いた荒野に戻してやった。
9 トマスとミュグドニア
マツダイ王の時代、首相のカリスの妻ミュグドニアがトマスと新しい神を見ようとやってきた。彼女の態度は不遜だった。しかしトマスは彼女が乗っている駕籠(かご)に近づくと、それを担いでいた従者を祝福した。トマスは群衆を前に貞節の大切さを説いた。するとミュグドニアは駕籠から飛び出してきて、トマスの前に跪いた。トマスは彼女に宝石をはずし、また夫との汚れた関係を控えるよう説いた。
夫のカリスは妻が自分といっしょに食べ、寝るのを拒んでいることに気がついた。翌日カリスが国王のもとに出仕すると、妻はトマスの説教を聞きに行った。妻が異邦人に心酔していることがカリスにはわかってきた。妻はその異邦人のことを医者と呼んでいたが、彼は呪術師ではないかと考えた。
ある日、また妻は夫といっしょに食べること、寝ることを拒んだ。彼女は「わが主イエス・キリストは偉大です。いつもそばにおられるのです」と言った。
マツダイ王はシフル将軍にトマスのことを聞いたが、将軍はトマスのことをほめたたえるばかりだった。ついにカリス自身がトマスを連行し、国王の前に差し出した。トマスは国王の質問に答えなかったので、死罪が言い渡された。トマスは捕らわれの身となっても悲嘆せず、魂の尊さと物質性の無価値について歌った。しかしミュグドニアはトマスの運命を知って嘆き悲しんだ。
10 ミュグドニアの洗礼
看守に袖の下を渡すと、ミュグドニアは奇跡的にトマスの幻影と会うことができた。トマスを家に連れて行くと、乳母のナルキアが洗礼の儀礼に必要なものをそろえてくれた。ナルキアもまた洗礼を受けて改宗した。トマスは牢獄に戻っていった。
翌朝帰宅したカリスは妻と乳母が祈っている様子を見て、新しい神が受け入れられていることを知る。彼は妻に新婚時代の愛を思い出すよう懇願した。
しかしミュグドニアは答えた。
「イエスこそが永遠の新郎なのです。花嫁持参金や花嫁衣裳と違って神との愛はいつまでも古びることはないのです」
カリスは国王のもとへ行き、トマスの死刑を執行するよう詰め寄った。国王はしかし使者をトマスに送り、ミュグドニアを夫のもとへ帰るよう促せば、解放しようと申し出た。トマスはカリスの家に行き、ミュグドニアに夫に従うように言った。彼女はそれは前言ったことと異なるではないかと反論した。トマスは、それは彼女が恐怖のなかにあったからだと説明した。
11 トマスとテルティア
マツダイ王の妻テルティアはミュグドニアを訪ねた。彼女はトマスの教えの真実さを証言した。テルティアはすぐにシフルの家に向かうが、そこにいたトマスが示した生き方に同調した。国王のもとに戻った妻を見て、彼女が改宗したことを悟った。怒りを覚えたマツダイ王はシフルの家で教えを説いていたトマスを連れてこさせた。国王の前で裁判が開かれた。
12 マツダイ王の息子ルザネス
マツダイ王の息子ルネザスはトマスと話をし、助けたいと考える。しかし王が戻ってきて、審理は開始される。トマスは、国王には彼にまさる力はない、彼の運命は神が握っていると主張した。国王の命によってトマスは熱い鉄板にはさまれるという拷問を受けようとした。ところが巨大な泉があらわれ、鉄板を冷やした。さらに水があふれてすべてが水に浸ってしまったので、国王はトマスに懇願して水を止めてもらった。トマスはルザネスとシフルに付き添われて獄に戻った。トマスは死の準備に入る。
13 ルザネスの洗礼
貞淑な夫でありつづけたルザネス(ヴィツァン)はトマスの弟子になることを願い、トマスに病気の妻ムネサラを癒すよう頼んだ。テルティア、ミュグドニア、ナルキアは看守にワイロを渡し、牢獄に入り、そこでルザネス、シフル、シフルの妻と娘と合流した。トマスは彼らとともにルザネスの家に行き、ムネサラを癒した。
14 トマスの受難
トマスはテルティア、ミュグドニア、ナルキアとともに牢獄に戻った。途中で彼は最後のメッセージを残した。彼は彼自身よりもキリストに心を集中し、キリストの再臨を願うように言った。
マツダイ王はふたたびトマスを裁判にかけた。国王は4人の兵士と官吏に命じ、トマスを町の外へ連行し、近くの山の上で槍を刺して殺すように言った。ルザネスは兵士たちに殺す前にトマスに祈りの時間を与えるよう頼んだ。山の上でトマスは祈りをあげ、兵士たちに促して彼を殺させた。
シフルとルザネスがトマスの体を見ていると、トマスがあらわれ、「そなたたちはなぜ私を見ているのか。私はここにはいない。昇天して約束されたとおりのものを私は受け取ることができたのだ」と言った。
トマスの遺体は丁重に葬られた。
のちミュグドニアとテルティアの夫たちは妻をひどく扱った。しかし彼女たちは純潔に生きる道を選び、夫たちも許さざるをえなかった。シフルは司祭となり、ルザネスは助祭になった。そして彼らのリーダーシップのもと教会は発展した。トマスの遺骨はメソポタミアに移送された。遺骨の一部でも奇跡的な治癒能力をもっているといわれた。マツダイ王は死ぬ前に懺悔し、シフルの許しを得ることによって大いなる喜びを得たという。
『トマス行伝』は物語という面で見ると、1800年前の作とは信じがたいほどプロットと人物描写が現代的で、巧みである。外典(聖書の正典に採用されなかった文書)というより古代の小説といった感がある。トマス派にとってはむしろ正典ということになるのかもしれないが。
ここに登場する人々の何人かは悪魔に取りつかれている。私は半世紀前のポーランド映画『尼僧ヨアンナ』を思い出した。主人公の司祭は尼僧院にはびこる悪魔を祓うために派遣された聖職者だった。尼僧ヨアンナは、ふだんは清楚で美しい尼さんなのだが、じつは肉欲の虜になっていた。悪魔祓いのシーンはのちの映画『エクソシスト』のように神父と悪魔のバトルが繰り広げられるすさまじいものだった。この映画のもとになった話は実際に17世紀のフランスで起こったことだった。
悪魔つきは2千年前にもあり、現在もあるものなのだ。現代においてそれは絶滅するどころか、欧米でも南米でも日常的に発生している。トマスは『トマス行伝』のなかで呪術師呼ばわりされているが、古代においても現在においてもエクソシズム(悪魔祓い)はキリスト教聖職者の大きな役割のひとつなのである。
思想的にはグノーシス主義との関わりが大きいといわれる。この書がマニ教に好まれていたのも、そのグノーシス的な色合いのせいだろう。しかし本論では脇道にそれてしまうので、これについては触れないでおきたい。
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