ヒンドゥー教から見た聖トマス
ここまではトマス派のクリスチャンの視点から聖トマス伝説を眺めてきた。彼らにとってトマスは十二使徒のなかでも特別なひとりであり、イエスの双子の兄弟であり、1世紀半ばにパルティアからインド、そしておそらく後漢朝の中国にまで布教活動の範囲を広げた聖人なのである。
しかしキリスト教徒以外の人々、とくにヒンドゥー教徒からすると、トマス伝説はナンセンスな作り物だった。
コエンラード・エルストはつぎのように述べる。(『聖トマスの神話とマイラプール・シヴァ寺院』)
実際、この使徒(トマス)がインドに来たという事実はなかった。南インドのキリスト教共同体は西暦345年、トマス・カナエウスという商人によって作られたものだった。(この名前からトマス伝説も生まれた) 彼は400人を率いて弾圧を強めるペルシアから脱出した。そしてインドで当地の支配者から庇護を受けたのである。
ヨーロッパのキリスト教大学ではもはや使徒トマスがインドへ行ったという伝説が歴史として教えられることはない。しかしインドではいまだに歴史として扱われることがあるのだ。重要な点は、トマスが受難者として持ち上げられ、(トマスを殺した)バラモンが狂信者として非難の対象となることである。
ヒンドゥー教徒がトマスを受難者として認めないことに、宣教師たちは憤懣やるかたない、といったように見える。(流れた血は信仰の種とみなされる) それゆえ彼らはストーリーを作りださねばならなかった。彼らは狂信的なヒンドゥー教徒の手にかかって殉死した聖トマスを記念して教会を建てたというが、実際は反対で、狂信者に殺されたのはヒンドゥー教徒だったのである。ジャイナ教寺院とシヴァ派寺院は強制的にキリスト教会に変えられた。マイラプール海岸から異教徒を一掃すると称して、キリスト教の兵士たちがどれだけのバラモンやヒンドゥー教信者を殺したか、多すぎてだれにもわからないのだ。
このように憎悪の念に満ち溢れている。聖トマスがインドに来たという事実がなかったどころか、4世紀以降キリスト教がインドで布教される段階で、多くの流血の惨事があったというのである。
そうすると、聖トマスが中国へ行ったという伝説もまったく信憑性がないということになる。とはいえ、とくに唐代、ネストリウス派(景教)の布教がさかんでかなりの信者を獲得したのはまちがいない。数百年のずれがあるのだ。シリア教会はネストリウス派の流れをくむ東方諸教会の教派であり、唐代の中国で布教した人々とインドで布教した人々が同一であった可能性はあるだろう。
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